そして、翌日。
以前、すみれに選んでもらった服と眼鏡をしながら駅ですみれを待っている私は、本人ではなく電話から声を聞くことになる。
曰く、体調を崩したそうだ。
(昨日の電話じゃなんともなさそうだったけど)
まぁ、急にそういうこともあるか。
(チケットの予約はしてしまったけれど)
事前に映画のチケットは取っているし、すみれにも気にせず行ってこいとは言われている。
それはおそらく正解の道なのだろうけど。
こう見えて恋人の体調が悪いというのにそれを無視できるほど薄情な人間ではない。
私はそれを思うと映画館へと向かう方向とは別のバスに乗り込んでいった。
(すみれは……どう反応するかしら)
バスの振動に揺られながら私はこれからすることに対するすみれの反応を想像する。
わざわざ説明するまでもなく、お見舞いにいくということなのだけどすみれはそれに対してどう思うかわからない。
付き合い始めてすぐの頃であれば、自分の言ったことを無視して見舞いにくるなと怒る姿も想像できたし今もその可能性が高い気もする。
ただ、意外に可愛いところもあることは知っているしもしかしたら見舞いに来てくれたことを喜んでくれるかもしれない。
少女みたいなすみれも悪くはないし、それを見てみたいかしら。
いつの間にか目の前にいるときよりも彼女を気にかけている自分をおかしく思いながら彼女の家の傍までつくと。
「……ここ、よね?」
彼女が住んでいるはずのマンションを前に私は思わずつぶやいた。勝手に言葉が出てきてしまった。
「……お金持ちなんだろうなとは思ってたけど」
目の前にあるのはこのあたりの建物としてはかなり巨大なマンションだ。そういった事情に詳しいわけではないが、恐らく私の薄給では家賃を賄うことができないであろうほどの。
自分より年下のすみれが住んでいるというのは信じられないというよりも受け入れがたい事実だ。
なんともむずむずと嫉妬というか面白くない感情が湧いてはしまう。
とはいえ、それを表に出すほど子供でもない私は驚かせようと部屋の前で行こうとしてそれ以前に入口のオートロックに足止めされる。
さすがというか。
調度品までもが存在するホテルのロビーにも似た豪奢な入口。そこに設置されているモニターから部屋に連絡をし開けてもらわなければならないものらしい。
(とりあえず電話かしらね)
ここでのモニターよりもおそらくは気づいてもらいやすいと携帯を手に取り、すみれへと連絡をする。
(よく考えたら寝てたり病院行ってるかもしれないのよね)
そんな可能性も考えていたが、それは杞憂らしく数コールですみれと繋がる。
「何か、用?」
少し掠れ、消耗を感じさせる声。
(辛そう)
素直な感想を抱くものの、それに反して
「今、どこいると思う?」
普段はしないような明るい声で告げた。
「……ん? 何」
「今すみれのマンションの入り口にいるの」
「……わけ、わからないんだけど?」
「お見舞いに来てあげたのよ」
「……映画行けって言った、でしょ」
(こっちの反応か)
まぁ、すみれならこういう方が似合っているかな。素直に感動されてもそれはそれで心地が悪い。
「というか、なんで私の部屋を知っているのよ。教えてないはずだけど」
「…………企業秘密ね」
「……だから、それ犯罪なんじゃないの?」
「さて、なんのことかしら?」
すみれは情報の出所が司書として入手した個人情報悟るがそれを口にするのはまずいため言葉を濁す。
「……文葉がそこまで不真面目な人間だとは思わなかった」
「褒め言葉として受け取っておくわ。それよりもうここまで来ちゃったんだからお見舞いさせなさいよ」
「……わかったわよ」
そうして私はまんまと恋人の家に初めてお邪魔することになる。
◆
マンションは内部も隅々まで清掃が行き届いており、本当に高級マンションだという印象を強くさせられたがすみれの部屋に入った時にはまた別の衝撃を受けた。
「悪い、けど……もてなす余裕なんてないわよ」
出迎えてくれたすみれはそういうと通されたすみれの寝室のベッドに横になる。
それを見送ってから部屋を見渡すと、その殺風景さには驚いてしまう。
余計なものが何もない。
この寝室なんてベッドと化粧台とクローゼット程度。
部屋を装飾するものはなく、フローリングの床がほとんど見えてしまっている。殺風景というよりは生活感がないと言えるかもしれない。
「人の部屋、じろじろ見てるんじゃないわよ」
ベッド脇に立ちながらそうしていると部屋の主からもっともな小言を頂く。
「どうせ、何もなくてつまらない部屋だって思ってるんでしょ」
すみれはベッドの上で頬を赤くしながら少しいじけたように言って見せる。
元々の顔だちのよさともあいまり劣情を誘う姿にも見えなくはない。
(……早瀬じゃないんだからそんな無差別に思わないけど)
それでもすみれのこの姿を見られたというだけでも貴重な瞬間だろう。
「らしい部屋だって思っただけ。いいじゃない、今はまだ何もないだけでしょ。何かあった時にはすぐそういう部屋にできるし。私の部屋なんて本の置き場がないくらいなんだから」
「……そういえば、私だけ部屋を見られたのは不公平ね。今度、文葉の部屋行かせなさいよ」
「構わないけど、まずは体を直しなさい。ご飯は食べてる?」
「……食欲ない」
「真っ赤な顔をしてるしでしょうけど、でも何も食べないのはよくないわよ。少ししたら消化にいいもの作ってあげるわ」
「……文葉、料理できるの?」
「これでも働き出してから五年以上自炊してるのよ。一通りはできるわ」
「……ふーん。まぁ、恋人の手料理っていうのも、悪くはないわ」
ベッドの上からすみれは意外にも素直に言ってくれた。
乱れた髪と、少し潤んだ瞳。艶っぽいみてくれ。
体調を崩していても態度自体は普段とそれほど変わらないように思える。
それでも素直に感情を吐露してくれるというのは彼女が少しは私に心を許しているということかもしれない。
勝手にそう思いながら私はすみれに寄り添うと軽く顔の汗を拭く。
「ちょ、っと……どうせまた汗はかくんだしいいわよ」
「それでも、そのままにしておいていいことはないでしょ」
「はい。それと水分も取らないとまずいだろうから、これ飲んでね」
「っは、ぁ……わかった、わよ」
熱っぽい吐息をと実際に触れた火照った頬。一人でいてどうにかなってしまうことはないだろうが、それでも来たことを肯定できる程度には調子を崩していることに、不思議と安堵する。
「それじゃ、私はここで本でも読んでるから。何か食べたくなったり用があったら呼びなさいな」
言って、ベッドから少し離れたところに化粧台のイスを置くとそこに座って持ってきておいた本を広げた。
「…………ありがと」
病気で弱気なのか強がらずに行ってくれるすみれのその言葉は嬉しかった。