部室につくとすでに洋子は来ていて、緊張した面持ちと同時に決意を秘めた表情で部屋に入ってきた玲奈を迎えた。
「……おまたせ」
と口にしたのは玲奈ではなく洋子の方。
「? それは私のセリフだと思うが?」
後からやってきたのは自分なのだから必然言うべきなのは玲奈の方なのは間違いない。
首をかしげながら洋子へと向かっていくと、洋子は軽く首を振る。
「……そうだけど、違うの。随分時間がかかっちゃったから」
「だから、なんのことだ? わかるように説明をしてくれ」
洋子の前まで来た玲奈はそのつもりがあるわけではないが威圧するように洋子を見下ろす。
昔の洋子であればひるんでしまうような光景だが洋子は玲奈の視線を真正面から受け止めると、大切そうに抱えていた本を玲奈へと差し出した。
「…………これ、読んで欲しい」
「? これは……絵本、か」
そうだろう。
子供向けの絵に、ひらがなのタイトル。それに本屋で見かけるような絵本の装丁。
しかし、市販されているような雰囲気はなく、玲奈はこれはなんなのかと中身を見る前に外観に疑問を抱く。
「……私が書いたの」
「っ、ふむ」
その言葉には驚きが宿ってしまう。自分と同じ年の人間が自分で本を作るということは玲奈にとっては衝撃的なことだった。
「そういえば、絵本作家になりたいと言っていたな」
「……うん。それが私の初めての本。久遠寺さんに一番初めに読んでもらいたかったの」
「それは……光栄なことだな」
正直言ってこの時にはまだ玲奈は洋子の意図を掴みきれず戸惑いながら玲奈は答える。。話があると言われ何故本を読めと言われるのか。簡単にその二つは線では結ばれない
だからと言って、話を切り上げるつもりはさらさなく玲奈は定位置となっていたソファに腰を下ろすと洋子も少し距離をとって腰を下ろした。
「では、読ませてもらうよ」
と、玲奈は表紙を開く。
(……………これは)
最初の数ページは、気にはしなかったが主人公にある出来事をが起きると玲奈は表情を変える。
「……………」
さらにはその後の展開に一度、本をめくる手を止め玲奈は洋子に視線を送った。
「…………」
洋子は視線の意味には気づいたが、玲奈に対して口を開くこともなく、だからと言って顔をそらすこともなく玲奈の視線を受け止める。
その瞳の奥に宿る意志の光に玲奈の方こそ気圧される。
(……黙って最後まで読め、ということか)
洋子の視線にそう訴えかけられているような気がして、玲奈は再び視線を落とすとページをめくる。
(………………)
何故この話を作られたのかと言うことと、自分に読んでもらいたい言った洋子の意図に気づいたことにより心の準備をした玲奈は、その先の展開にも大きくひるむことはなく、しかしそれでも思うことはあり感情の波が心を揺さぶっていた。
(……なるほど、な)
絵本の内容は、よくある話と言えばよくある話だった。
数分後、物語の結末まで目を通し、玲奈は心の中でそう呟いた。
「……………君が何故私に読ませたかったのかは理解したよ」
何を言うべきか玲奈は心を探り、出てきた言葉にわずかな怒気を乗せる。
「どう、思った?」
洋子も玲奈の感情を知っても、それでも玲奈にそれを求めた。
「……都合のいい話だな」
「そう……かな」
「そうだよ。こんなことは現実には起こらない」
言って、玲奈は手にしていた絵本を洋子へと差し出した。持っていることに嫌悪を抱いたわけではないが、今は穏やかな気分にはなれない。
「君は、私にも同じことが起き得ると言いたいのかもしれないが、そんなことを信じられるほど私は楽天家ではないんだよ」
絵本の内容は簡単に言えば、玲奈のことが書かれていた。
幸せだった少女が親から離れ、一時は自暴自棄となる。
玲奈自身のことと比較すればソフトな表現にはなっていたがそれが洋子が自分のことを書いていると玲奈にはすぐにわかった。
その時点ではまだ自分のことを書いているんだな程度の感想だったが、物語の結末は玲奈にとって受け入れがたいものだった。
自暴自棄となり、自分を傷つけていた少女が周りの友人たちと絆を深め、助け合うことで孤独ではなくなっていき、自分自身を大切に想えるようになっていくという再生の物語。
ストーリー自体はよくある話だ。
だが、そこに込められた洋子のメッセージを見て玲奈は不快だった。
「……苦しんだからと言ってそれが報われるとは限らない。創作物としては問題のない表現だろうが、現実はそんなに簡単なものじゃない」
それを口にしていると、自分で言ったことなのに胸の痛みを感じてしまう。
そう、お話のように都合よく救われたりはしない。
(……いや、してたまるか)
何年も苦しんできたのに、簡単に救われるなどありなえい。
そんなに簡単に自分を好きになれたら何のために苦しんできたんだ。
「……私の未来にこんな、都合のいいものはないよ」
感想を述べるうちに自分の思考が過激になっていることには気づく。だが、今更その感情を抑えることはできず洋子につい負の気持ちを向けてしまった。
「……未来じゃ、ないよ」
だが、洋子は意外なことを返してきた。
戸惑いながらも玲奈の気持ちを否定する想いを玲奈へと向ける。
「これは、久遠寺さんの今のお話しだよ」
「何を言っている。どこが今の私の話だというんだ。私にはこんな友人もいなければ、自分を認められてもいないよ。自分が幸せなどと思えていない。どこが今の私だというんだ」
絵本の少女は、周りに支えられ周りを支え、自分を大切に想い、これからに希望を抱いている。
自分と重なる部分などないと玲奈は本気でそう思っていたが、洋子はそれを否定する。
「久遠寺さんが気づいていないだけだよ。久遠寺さんの周りには、いっぱい友達がいるよ」
「っ……」
「水鏡さんも、片倉さんも、初音さんも、神守さんも………私も、みんな久遠寺さんのことを友達に想ってるよ」
「それは……」
「みんな久遠寺さんのことを心配してる。どうして、あんなことをしてるんだろうって。自分で自分傷つけてほしくなんかないって思ってる」
訴える洋子に玲奈は、洋子が玲奈にかかわりのある様々な相手とよく話をしていたことを思い出す。
それは、玲奈の情報を集めていたということもあるのだろうがそれ以上に玲奈に対する気持ちを確認していたのだろう。
「君たちには、関係のない話だろう……」
それに気づいた玲奈は先ほどまでの強い気持ちはなく、一転沈痛な顔で言った。
「あるよ。友達だから、久遠寺さんにそんなことをしてほしくない」
対する洋子は覚悟を決めた様子でソファに座る玲奈との距離を詰めた。
「久遠寺さんは私達を友達だと思ってくれいないの?」
「それは……そんなことは、ない」
自分からは堂々と友人という勇気はないが、正面切ってそれを問われれば認めざるをない。
「だが……君たちに心配をされたとしても、やめるつもりなんかない。そんなに簡単にやめられるようなことじゃない」
「なら、久遠寺さんはどうしたら自分で自分を傷つけるのをやめられるの?」
「…………っ」
洋子の問いに、玲奈は心が壁際に追い詰められたような気分にさせられた。
(そんなことは、私が聞きたいくらいだ)
どうすればやめられるか? そんなことはわからない。
だが
「やめられんよ……このまま救われもしないのに、やめてしまったら私は今まで何のために苦しんできたんだ? 結月を傷付けてまで私はこの行為を続けてきたのに、何も得ないままやめたらそれが無駄になってしまう……」
「…………………それが、リストカットを続ける理由?」
洋子の悲しそうな顔。憐れんでいるようにも同情しているようにも見える。
「久遠寺さんは怒るかもしれないけど、久遠寺さんの言うこと少しだけわかる。私だって……ちょっとの間だけしてたから、こんなに痛くて苦しい思いをしたのに、久遠寺さんの心には全然届かないような気がして悲しかったし、無駄になることも怖かったよ」
でも、と続けて洋子は玲奈の左手を取った。
「っ……」
触れられることを拒絶しているはずの左手。
しかし今は洋子の手を振り払おうとはせずにされるがままにする。
制服の袖をめくられ、傷を露出させられても。
「私は、やめられたよ。無駄じゃなかったって思えたから。自分でそう思ったから」
「それは………君の苦しみが……想いがその程度だったということだろう」
「かもしれないけど、違うって思う。やめようと思ったからやめられたの。自分で、そうやって決めたの。久遠寺さんを救うには同じことをすることじゃないって気づいたから」
「それで……絵本を書いたというのか」
「……うん。きっかけになってほしいって思ったから」
「……なら、無駄だよ。この程度で私の苦しみに意味なんて持たせられない」
自嘲気味に笑う玲奈。
洋子はそんな玲奈を見ると
パン!
と、勢いよく頬を叩いた。
「よう、こ……?」
「そんなのに意味を持たせなくていい! 苦しんだことなんて意味がないよ。そのためにもっと自分を傷つけて、それこそなんの意味があるの!? 何にもないよ!!」
瞳に涙を浮かべ、怒りと一緒にどこか暖かな言葉を玲奈に浴びせながら洋子は玲奈の傷に触れた。
「気づいて玲奈。玲奈は今まで苦しんできたけど、でもそれだけじゃないよ。周りにはみんながいる。痛みにばっかり目を向けないで。終わりにしようって思ったら終わりにしていいの。玲奈は自分で自分を不幸にしてるだけじゃない。そんなことはもうやめてよ」
傷に触れられる。
それは玲奈が最も嫌う行為だったはずなのに、玲奈は洋子の指を拒絶せず強烈な想いをぶつけてきた相手を呆然と見つめていた。
「それでも意味が欲しいのなら私があげる。意味はあったよ、久遠寺さんはリストカットをしてたから水鏡さんに負い目を感じてこうやって部活もはじめた。そこでみんなと出会って、友達になれた。それが久遠寺さんにとっての意味なの。無駄なんかじゃない」
「……………それはまた、強引な考え方だな」
豹変した洋子の言葉に玲奈は嘲笑するように言った。
だが、それは本気でそう思っているというよりは心を軽くしたからこそできる、距離を縮めたからこその笑い。
「だが………………………………………」
長い沈黙。
「……………………」
心に変化が訪れたことを玲奈は自覚したが、続きの言葉をすんなり言えるほどの劇的なものではなくその沈黙に洋子は「久遠寺さん?」と首をかしげる。
「いや、君はこんなことも言えたんだな。ビンタはきいたよ」
「っ……そ、それは……その……」
自分が久遠寺さんではなく、玲奈と呼んでしまうほどに熱くなっていたという自覚はあるんだろう。少し冷静になった今それを振り返り先ほどとは違う理由で赤面する。
「……だが……ありがとう」
そんな洋子を見つめながら玲奈は今度はその想いを伝えることが出来た。