幾度も訪れた大きなお屋敷の中を歩いていって私は、ある部屋の前で立ち止まる。
麻理子というプレートの掲げられた木のドアを見つめて、まずは深呼吸をした。
「すぅ……、はぁー」
そんな程度じゃもちろん鼓動が収まる事はない。むしろ、どくんどくんって緊張しているんだって体が主張してくる。
彩葉さんの話を聞いて、先輩に理由があったんだってわかってはいてもそれでも体は正直だ。
でも、震える心と体に負けないほどの想いを持ってここにいる私は一度の深呼吸で決意を固めた。
コンコン、
「はい、どうぞー」
私が来ていることなんて夢にも思っていない先輩は、彩葉さんだと勘違いをしてそんなことを言った。
「失礼します」
そして、その一言と共に震えながらもまっすぐとした気持ちを持って部屋に入っていった。
「っ!!!???」
ベッドにいた先輩は多分、声を聞いた瞬間にわかってくれたんだと思う。
持っていた本を床に落として、目を見開いて驚く先輩の姿は私が今まで見たことのないものだった。
見たことのない先輩の姿。多分、いっぱいあるんだと思う。
見たことがない、っていうよりも多分先輩が意識的に見せてこなかったもの。同時に、私が見ようとしてなかったもの。
「こんにちは、先輩」
怖さも、不安もある。だけど、先輩を強い気持ちを持って見つめる。
「…あ、え、と……はる、か、さん……」
対して先輩は、一瞬だけ私を見つめるとひどく心細そうな態度で、視線を落とす。
「え、と……ど、どうして、はるか、さんがいるんですか? 彩葉、さんは?」
「帰りました」
ベッドの前まで迫って、先輩を見下ろすようにする。この前は、ただ雰囲気に飲まれるだけで対等に話もできなかった。でも、今の私は先輩と対等に話すためにここにいる。
「っ……そういう、こと、ですか」
こういうところはさすがって思う。先輩はそれだけで今の状況をある程度察することが出来たみたい。
それとも、それだけ彩葉さんのことをわかってるっていうことかもしれない。……彩葉さんの気持ちすら。
「……先輩、私……」
「……待って、ください」
私が口を開こうとした瞬間。先輩は胸の奥からひねり出すかのような声を出して私を制止する。
「……ちょ、っとだけ、考えさせてください」
先輩が何を思ってそういう風に言ったのか、私にはわからない。本当は、私は今すぐにでもちゃんと話をしたい。
「…………はい」
だけど、先輩は本当に苦しそうな、悩み抜こうとしている雰囲気が痛いほどに伝わってきて、私は頷いていた。
先輩は、今戦っている。この前のことだって、本当はすごい悩んでくれてたはず、想像だし、そう思いたいだけかもしれないけどこの前のことがあってからだって、先輩は後悔してくれたって思う。
そうじゃなきゃ、保健室に来なくなる必要はない。ただ、私に冷たくすればいいだけ。本当に恋人ごっこだったっていうなら。
私はこの前みたいに先輩のベッドの前にぺたんと座って、目を閉じ自分の中の何かと戦う先輩を見つめる。
そうしていた時間は数分だったと思う。
目を閉じ、痛む心を抑えるかのように胸を押さえていた先輩はその手を話すと、ゆっくりと顔を上げて重苦しい息を吐いた。
「彩葉、さんにどんな話をされました?」
憂いを帯びた瞳に覚悟を秘めながら先輩は私を真剣な瞳で見つめてきた。
「色々、です。最初は、退院した後も普通に教室に通ってたんですよね」
聞いたことは多くはない。でも、想ったことはいっぱい。どれを聞くべきなのかは迷ったけど、ここな気がする。
先輩が一番抱えているものは。
「……はい」
「それで、その……大きな発作があったっていうのも聞きました。それから、学校に来なくなったって」
「そう、ですね」
「どうして、ですか?」
この前のことと、彩葉さんの話を聞いてまったくの予想が出来てないわけじゃない。でも、先輩の口から直接聞きたかった。
「そうですね……」
「……今度は、本当のことを話してください」
それはこの事だけに対してじゃなくて、今日これから先輩が話してくれるすべてに対しての言葉だった。
「…………はい。ふふ、わかってますよ」
不安と苦しさを紛らわすかのような薄い笑い。今思うと先輩はこういう風笑うことが多かった。
「例えば、私が目の前で血なんか吐いたらはるかさんは心配しますよね」
「あたりまえ、じゃないですか」
「そう、当たり前です。誰だってそう思います。でも、心配されるのって嬉しいだけじゃないんですよ?」
ひどくせつなそうに、私じゃわからない感情を込めながら先輩はまた小さく笑ってた。
「血を吐く、なんて普通じゃないですよね。堰とかもすごいですし……あの日、教室で大きな発作がありました。あんなに苦しかったのは後にも先にもあの時だけです。教室でいきなり咳き込んで、血を吐いて……ホントあの時は辛かったですけど。本当に辛かったのはそれじゃなかったんです」
苦しさを持つ過去を振り返る事は楽じゃない。ある意味じゃ、その苦しみを味わっていたころよりも怖いことがある。
先輩なんかとは比べ物にならないだろうけど、私も先輩に嘘のことをいわれたときのことを振り返るのは怖かった。
「次の日、幸いにも普通に登校できましたけど……世界が、変わってました。別に迷惑がられたわけじゃない。でも、私には苦痛でしたよ。こんなこというなんてひどいですけど、みんな……優しすぎましたから。必要以上に何でも心配されて……あぁ、そのことが嫌だったなんてことはないんです。……いえ、嫌でしたけど、嫌だった、のは……私がみんなのお荷物になってる思ったことなんです」
「先輩、それは……」
「……わかってますよ。みんなそんな風になんて思ってなかったって。……でも、私はそう思っちゃったんです。いるだけで空気が変わってしまう。私がみんなの日常を壊してしまっている、私がみんなの足を引っ張ってる。そう思えてしまうことが嫌でした。態度が変わっちゃったりするのも、当然です、当たり前です。私だって、入院する前とは全然違ってましたから。そうやって血を吐くのはもちろん、軽い運動だって満足にできない、いつ発作があるかわからないから友達と遊びにだって行けない。……変わったって当然です」
周りがよかれと思ったことが、その人のためと思ったことがその人を傷つける。そんなことがあるっていうのはわかっていたけど、先輩の気持ちをわかるには先輩と同じ経験をしなきゃできないって思う。
「……怖かったんです。はじめは、私が勝手にお荷物だ、足手まといだって思ってるだけでした。でも、いつからか本当にそう思われてるんじゃって、不安になって……悪循環ですよね。大切な人たちに、今はそんな風に思われなくても、いつかは……って思ったら怖くて……怖くて、逃げたんですよ」
本当に私は先輩を知らなかった。先輩がこんな風に自虐的に笑うなんて見たことなかったし、こんな笑いが出来るなんて考えもしなかった。
「特に、彩葉さんは駄目、でしたね。……彩葉さんは私が学校に来なくなっても、何でもここまで来てくれて、ちゃんと学校来いって誘ってくれました。嬉しかった、ですよ? でも……彩葉さんは私のこと知りすぎてて、余計に怖かったです。だからこそ、お互いにこれまでとの差を感じちゃうんじゃないかって。手を伸ばしてくれてるのは……知ってました。私が、人と関わるのを避けようとしてるのがわかったんしょうね。でも、私はそれを見ない振りをしました。……怖かったから。でも、彩葉さん諦めてくれないんですもん。だから、保健室にならってことになったんですよ」
私から見たら先輩はいつもにこにこして、飄々として、つかみどころのない雲みたいな存在でもあった。
だけど、今の先輩は私と一つしか変わらないんだって思い出させてくれるような弱さを隠さずさらしてくれてた。
その姿に拳をきゅっと握り締める。
「……それからは、彩葉さんとは壁ができちゃいました。なんていったら良いんですかね。一定以上の領域には踏み込まれないようにしてたんですよね。不思議な関係ですよ。親友だけど、ただの親友なんです。言葉は変ですけど、まぁ……そんな感じなんですよ」
(っ)
辛そうな先輩だけど、私も二重の意味で胸が痛かった。先輩の苦しみを少しでも感じてるっていうのもあるけど、彩葉さんの気持ちを知ってる私は、ある意味じゃ先輩以上に苦しかった。
「………………この前言ってたことは、嘘じゃない、ですよ」
「え?」
「…………はるかさんじゃなくても、よかったっていうことです」
「っ……」
この前私を絶望の谷へと落とした言葉に私は心を震わせる。これは、前とは違う意味だってわかってるはずなのに、それでも心は素直だった。
「……もう、隠し事しても仕方ないですから、言いますね」
「…………はい」
これから聞こえてくるのは絶対に私にとって辛いこと。それをわかっても耳をふさぐ選択肢なんてない。先輩の力になりたいんなら、それを受け入れる勇気を持たなきゃ、対等に先輩に向かえない。
「保健室登校っていうのは、ある意味新鮮でしたし、縛られてないっていうのはよかったですよ。でも、辛かったです。色々と。自分から、独りになっておいて勝手ですけど寂しかった、です。私の周りには友達なんて呼べる人はほとんどいなくなって……保健室で一日を過ごす。……そんな寂しさを私のことを何も知らない下級生で紛らわせようとしてた。…………………はるか、さんも、その一人、でした」
「っ……」
目を伏せ、唇を噛む。涙だって出そうだったけど、そこまでは心を揺るがさない。
「ふふ、はるかさんってほんと変な人ですよね。ほとんどの人は、私とまともに話そうとだってしなかったのに。はるかさんだけですよ。私に向かってきてくれたの」
「それは、その……」
緊張感が漂う空気の中、自分が色々恥ずかしい勘違いをしていたことを思い出して、思わず赤面しちゃった。
「でも……私は嬉しかったです。楽しかったです。……はじめは誰でもよかった、たまたまはるかさんだった。それは……本当です。けど、はるかさんってば、可愛いんですもん。優しいんですもん。……眩しい、んですもん」
当時のことが頭をめぐっているのか懐かしさに浸りながら先輩は天井を見つめていたけど、声の調子はさっきから変わってない。目の前に霧がかかっているかのような、不確かで力のない言葉。
「はるかさんでよかった。はるかさんと出会えてよかった。そう思いました。それも嘘じゃありません。……でも、今ははるかさんじゃなければよかったって、思ってます」
「っ!? どうして、ですか?」
「本当に好きになっちゃったから、ですよ」
普通なら意味のわからない言葉だったかもしれない。でも、その理由が今は少しだけわかるような気がする。
「はじめは……ただ、好きで、もっと一緒にいたいって思ったりもしました。だけど、そう思えば思うほど、会いたくないって思う気持ちも強くなりました。理由は……わかりますよ、ね」
「……はい」
彩葉さんのときと同じように思ったんだって思う。……好きって思えてるから、秘密を知られるのが怖い。私まで、クラスメイトの人たちみたくなるんじゃないかってことだと思う。
「いつかはばれるって、隠し通せるはずがないってわかってました。そんなの当たり前ですもん。でも……怖かったんです。知ったら、はるかさんが離れていくかもしれない」
「そんなこと、思いません!!」
今、ここで口を挟むことじゃないっていうのはわかる。でも、言わなきゃいけなかった。
「ふふ、……わかってますよ。けど……」
ここに来てから何度目かの自分を貶めるような笑み。
そして、先輩は一度目を瞑り、すぐに開いて私を射抜いた。
「……やっぱり、別れましょう」
視線は確かに私を貫いていた。
「嫌です!」
だけど、心がそれを跳ね返した。
「……ふふ、はるかさんてば厳しいですね。そう言ってくれると思いましたよ」
「……なら、先輩はそんなこと言わないでください」
今はちゃんと向き合える。何もいえなかったこの前とは全然違う。彩葉さんの思いを知り、先輩の抱えていたものを見て、私の想いはダイヤモンドよりも固くなってるんだから。
「……はるかさん。私は最低な人間なんですよ」
先輩は私から視線をはずさない。まるで先輩の抱える闇を秘めているような黒い瞳は少しだけ潤んで、私にはそれが助けを求めている証にも思えた。
「……はるかさんだけじゃなくて、実際、彩葉さんも、クラスの人たちも誰も私のことを迷惑なんて考えてないんだって思います」
「だったら……」
「でも、どう思われてるかなんて本当はわかりようがないんですよ。迷惑に思われるかもしれない。そう、私が考えることが私には重要なんです。……所詮、人にとって絶対は、……自分の気持ちだけなんですよ」
「そんなことありません!!」
「ふふ、ありませんって言われても……」
わがままをいうみたいな私に先輩は困ったような顔をした。けど、すぐにまた表情を暗くする。
「……ありますよ。私、だって……はるかさんの事は信じてます。はるかさんは私のことを足手まといに思ったりなんかするはずないって。だけど、それが本当にずっと続くかが不安なんです。怖いんですよ。自分が異常だってわかってるから、いつかはるかさんが……私のことを重荷に思う日が来るんじゃないかって。……だから……一緒にいたくないんですよ……ふふ、泣きたくなるくらい情けない理由ですよね」
泣いてる。先輩は、泣いてる。肉体的なことじゃなくて、心の中で。先輩はずっと泣き続けてきたんだ。いつか来るかもしれない恐怖に帯びていたんだ。
だったら、やっぱり私のすることは……
「先輩!」
私は勢いよく先輩を呼ぶと同時に立ち上がるとそのまま先輩に迫って
ボフン!
先輩をベッドに押し倒していた。
「え、ちょ、は、はるかさん!?」
すぐに先輩からは手を離すけど、覆いかぶさるのはそのまま。
「あ、あのど、ど、どどうしたんですか?」
先輩はいきなり押し倒されて動揺を隠せていない。いつも余裕を見せていたような先輩が今はまるで少女のようにただ、押し倒されたことに驚いていた。
「先輩!」
「は、はい!?」
「好きです」
「え……あ、えと、ありが、とう、ございます……」
「私は先輩が好きです。私は先輩の恋人なんです! だから、そんなこと言わないでください!」
私にできるのは結局これしかない。先輩の体を治すことも、痛みを和らげることも、先輩が苦しんでいる原因には何もできない。
だから、気持ちを伝えるしかない。今までだって何度も伝えたけど、それでも何度でも何回でも、まっすぐに先輩の心の奥の奥にまで届くように気持ちを伝えるしかない。
「迷惑かけたっていいんです。恋人なんです! 大好きなんです! 迷惑でも、重荷に感じても、それでも先輩と一緒にいたいんです」
「ッ…はるか、さん……」
「先輩がそれを嫌なら……私も先輩に迷惑かけますから!!」
「へ!?」
「それならおあいこです!」
「え、いや、あの、はるか、さん……ちょっと、話がおかしくなってる、ような…………」
「そんなことないです! 私が先輩を助けますから先輩も私を助けてください。恋人なんですから。それとも、先輩は私が困ってても助けてくれないんですか!?」
「そりゃ、まぁ、助けます、けど……」
「それが当たり前なんです。だから、先輩だって私を困らせてもいいんです!」
「……いえ、でも……私の場合は、重さが違うっていうか……」
「そんなことは知りません!!」
「し、知りませんっていわれても」
「どんなことかなんて関係ない。私は先輩が好きなんです。大体いつも私は先輩に困らされてばっかりだし、今さら他のことで迷惑かけられたって気にするわけないじゃないですか」
「な、なんだからさらりとすごいこと言われたような……」
「さっき、先輩は自分とっての絶対は自分の気持ちだけなんていったけど、そんなことない!! 私が先輩のことを好きなのは絶対に絶対なんです。だから、先輩は私のことを信じてください! 先輩が好きな私を信じてください!」
単純に思いを伝える言葉を理性もなく私はぶつけ続けた。私を、世界を拒絶しようとする先輩の心のドアをぶち破るために。
「…………はるかさん」
それが先輩に届いたのかはわからない。ただ、先輩は感情の読み取れない声色で私の名前を呼んで、目を閉じると。
「わっ!!」
私の背中に手を回してきて、
私の体は先輩の上に落ちていた。
「……ちょっと、こうさせてください」
そして、いつもに戻った先輩の声が耳元で囁かれるのだった。