「ん……は、あ……」

 まだ痛む頭を抱えながら目を覚ます。

 ぼやけた目にうつるのは、妙な模様があるようにも見える白を基調とした天井。嘘か誠かは知らないけど、小学校や中学校の天井も似たようなのだったのは防音のためだとかなんとか。

 それと、ベッドを区切るカーテン。人影はない。

「誰も、いない?」

 カーテンの向こうに人の気配は感じないし、寝る前には隣のベッドで寝ていた先輩も今はいない。

 ……保健室登校だなんていってたからずっといると思っていたのに。まぁ、いないほうが気が楽だけど。

「今、何時だろ……?」

 それを思ってポケットに入れていたケータイを取ろうとしたら……

 ポト。

 おでこから何かが落ちた。

「ん?」

 何かと思って視線を動かしてみると、

「ハンカチ……?」

 顔の横に落ちたのは、白くて清楚そうなハンカチ。端はレースになっていて結構高そう。私のじゃない。

 おでこにあったみたいだから、まぁ冷やしてくれていたんだと思う。

(先生が……?)

 でも、先生がやるのなら普通にタオルとかでもいいような気がする。

「ん、これって……」

 ベッドの脇に備えてある机に紙が置かれていることに気付いた。花瓶を重しにして、何か書いてある。

「先輩、だ」

 

 遠野さん、おはようございます。体調はどうですか? 勝手とは思いましたが辛そうだったので私のハンカチでおでこ冷やしておきました。何の用があるのかはわかりませんが、ちゃんと休んだほうがいいと思いますよ。頑張るのはステキなことですけどね。では、お大事に。

 

「…………」

 わざわざ手紙なんてまめな人なのか、それともただ暇だったのか。でも、私のためにハンカチを使ってくれたというのはやはり変な人ではあっても基本的には優しい人みたい。

 でも、本人がいないとハンカチが返せない。そのうち戻ってくるのかな。

 うーんと、首をひねっているとよく考えたらまだ時間を確認してないことに気付いた。

「えっ!? もうこんな時間!?

 時計はもうとっくに放課後になっていて、用だった委員会の会議の時間をとっくにすぎている。

 私はあたふたとしながらベッドを降りると、一瞬先輩のハンカチをどうしようと考えてすぐに後で返そうと握り締めて保健室を出て行った。

 

 

 結局私はその日から体調を崩して、次に学校に来たのは三日後。まだ回復しきったわけじゃなかったけど、早めに済ませたいことがあった。

 二時間目と三時間目の少し長い休み時間。私は保健室のドアの前に佇んでいた。

 済ませたいこと、それはこの前持ち帰ってしまった先輩のハンカチを返すこと。ちゃんと洗濯もし、あとは一言二言お礼を言って終わりにすればいいはずだが、どことなく気が進まない。

 先輩のことが嫌い、というわけではないのだ。しかし、苦手とは言ってもいいかもしれない。まず保健室登校をしているという時点でどこか、同じ学校の人間でも別種な感じがしてしまうし、いちいちふざけたような態度を取るのも好きではない。それに、面倒だからと授業をサボるのはどうかと思う。なら学校になど来なければいいのに。

(けど、返さないわけにもいかないし……)

 私は変わらずドアを見つめている。

 ……休み時間なのだからいくら教室とは離れているとはいえこの廊下にも人がいてはいるわけでもなくただ立ち尽くす私を何しているんだろうという目で見てくるのが地味に痛い。先輩のことを変な人と思ったがこれでは私も変な人扱いだ。

(ただ、お礼を言って帰るだけ……。よし、いこう)

 と、決意をした瞬間

「おや、ハンカチ泥棒さんじゃないですか」

「ッ!??

 後ろから先輩の声。

「せ、先輩!!

 中にいると思っていた先輩がいきなり背後から現れて私は思いっきり驚く。

 先輩はそんな私を見てクスクスと微笑んだ。

「おやおや、私に会えたのがそんなに嬉しいですか。光栄ですね。それで、何か御用ですか? ハンカチ泥棒さん」

「え? あ、あの、は、ハンカチは、と、盗ったわけじゃなく、て……あの、おきたら先輩がいなくて……その、だから……」

 私に貸してくれているんだと思っていた私は泥棒と言われたことに急に不安になってしどろもどろになってしまった。

 しかし、先輩はまたふふふと楽しそうに笑うだけ。

「冗談ですよ。まぁ、立ち話も疲れるので中にどうぞ」

 先輩は私の横を通りすぎるとあっさりと保健室のドアを開けて中に入っていき私も先輩のあとに続いていった。

(って、よく考えたら先輩にあったんだからそこで渡しちゃえばよかった……)

 それならあっさり終らせられたのに。

 本当にそうすればよかったとこの後私は人生においても最大級の衝撃を受けてしまうことになるのだが今の私はそれの気配すら察知することができない。

「ふむ、また先生はいないですね。尋ねてきた女の子と鍵をかけられる保健室で二人きり、お約束というやつですね」

 先輩はよくわからないことを言うとツカツカと歩いていって、この前いたベッドまで歩いていく。

……ゲームに漫画に、小説に、あと一応教科書が枕元においてある。脇のテーブルにはペットボトルのお茶。まるで自分の部屋のベッドかのようだ。

 でも、休み時間に戻ってきたということはさっきの時間は授業に出ていたんだろうか。

「あの、授業出てたんですか?」

「ん? いえ、出てませんけど」

 先輩は上履きを脱いで我が物顔でベッドの上座りながら答えた。

「そう、ですか」

「あぁ、私がここから出てたからそう思ったんですか。ちょっとお花を摘みにいっていただけですよ」

「お花……? でも、持ってないですよね?」

 どこからどう見ても先輩は手ぶら。まさか花を制服の中に隠し持ってるわけはないし……

「……っぷ、くっくっく、ふふふ、ははははは!

 私の素直な受け答えに先輩は抑えようとしながらも噴出しながら笑った。

「いえ、失礼。あなた面白い人ですね。気に入りました」

「えっ、と……あの?」

 一方、当の私は何かおかしなことをいったのだろうかとぽかーんと首をかしげる。

「この場合、お手洗いにいくということですよ。素直な人ですね。遠野さんは」

「あっ!?」

 そこでやっと隠語の正体に気付いた私は、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして涙まで出そうになった。

 う〜〜。もう、嫌。早くハンカチ返して教室に戻ろう。それで、もう保健室に近づかなければいい。

「まぁ、おしゃべりは置いておいて、何の御用ですか?」

「は、ハンカチを返しに」

「ん、あれはあげたつもりだったんですけどね。久しぶりに楽しい時間を過ごさせてもらったお礼に」

「そういうわけには……あれ……え?」

 ポケットを探っていた私はそこにあるはずの感触を感じられず、代わりに急に嫌な汗が出てくるのを感じた。

(な、い?)

 あれ? 嘘。ちゃんと朝鞄に入れて、それで教室でポケットに入れていたと思った、のに……今ポケットにあるのは私のハンカチと、ケータイと……それと、もう一つだけ。

 私は無駄とわかりつつもポケットの中身を一つ一つ出して確認していく。

「ん? これ、飴ですか? 意外ですね、こんなものをもってきてるなんて」

「あ、それは……そのお礼にと思って。ただの、飴ですけど……」

 返すのに三日も空いてしまってそのままじゃ悪いかなと思ってたまたま朝目についたアメをポケットに忍ばせてきていた。

「あの……すみません、もってきたと思ったんですけど……」

「失くしちゃいました?」

「い、いえ! た、多分鞄の中か最悪家にはあると思うので……」

「いいですよ。差し上げます」

「でも」

「遠野さんの気がすまないのなら、このアメと交換ということにしましょう」

 先輩はそういうと机に置いたアメを素早く手に取ると包みを開けて口に放り込んでしまった。

「ん、ちゅぷ……うん。甘くておいしいです」

「は、はぁ……」

 持ち主の先輩にそんなこと言われたってこっちとしては返さないと気がすまない。とりあえず教室に戻って鞄の中を探してこよう。

「それにしてもちょっと意外でした」

 教室に戻ろうかと考えていた私に先輩がそんなことを言ってくる。

「え? 何が、ですか?」

「あなたがまた私に会いに来てくれるとは思ってませんでしたから。元々ハンカチはあげたつもりでしたし」

「そう、ですか?」

 そんな不誠実な人間と思われるのは少し心外。

「だって、あなた私のことあんまりいい目で見てませんでしたからね。授業サボってふざけてる変な人、って目で私を見てましたよ?」

「うっ……」

 全部じゃないけど概ね正しい。

「あはは、それにしても隠し事のできない人ですね。普通はここで言い当てられても平然と取り繕うものですよ」

 それにしても先輩はいちいち楽しそうだ。常に笑顔というよりはなんだか達観したような笑いが多いんだけど、子供のような純粋な笑いにも見える。

 なんだか、変というよりは不思議な人。

 変と不思議、似てるような気もするけど、不思議となると私の中では印象が結構違うイメージ。

「で、でも、お世話してもらったのは本当ですし、ハンカチも私を心配してくれたって、思ってますし」

 なんだか余計なことまで言ってる気がする。

「へぇ……思ったとおりとても素直な子なんですね。可愛いです、ますます興味持っちゃいました」

 先輩の目の色が変わったような気がした。

 最初のときからずっと、どこかふざけているような印象があったのに今は凪いだ湖のような穏やかだけど私の深遠までも見つめてくるようなそんな目をして、私のことを注視している。

「さっき、アメと交換でいいって言いましたけどもし遠野さんがそれで気がすまないのなら一つ、お願いをしてもいいですか?」

「お願い、ですか?」

「えぇ、大したことではないのですが」

「まぁ、出来る範囲ならかまいませんけど」

「ありがとうございます。じゃあ、少しの間目を閉じてくれませんか?」

「目、ですか?」

「はい、手間は取らせませんので」

「まぁ、それくらい、なら……」

 先輩が何を考えているのかわからないけど、私は言われるままに目を閉じた。

 先輩のいるベッドの前にたって目を閉じる。

 目の前が真っ暗になって、何故か自分がどこで何をしているのかわかっているはずなのに視界がなくなるというだけで妙な不安を感じてしまう。

(……なんだろ? やっぱり失くしたかもしれないから、おしおきにビンタでもするとか?)

 まだ、合計で数十分の付き合いでもそういうことはしてきそうにないとは思うけど。目を閉じさせる理由も思いつかない。

 第六感みたいなものが働いているのか、何か背筋をそっと撫でられるようなくすぐったい不安が目を閉じてからずっと体にまとわりついている。

 そして、その不安は

「ふふ、遠野さん……ちゅ」

 的中した。

(は?)

 今、唇に何か柔らかくて、暖かな感触がした、ような……?

(なに、今の?)

 今までされたことのない感触。

 感じたことのない触感。

 指よりも少し暖かくて柔らかくて……?

(ま、まさか…………?)

 私は何がおきたか、起きてしまったのか心のどこかでは想像をつけておきながら同時に否定して、目を開けた。

「思ったよりもあっさり出来ちゃえました。さすがに恥ずかしかったですけど」

 私の目に映ったのは若干頬を赤くして、唇に指先を当てている先輩だった。あたかもさっきあった感触を思い起こしている、ような。

「ふふ」

 数瞬後、赤い舌で唇を舐めとる。

 何をされたという疑惑が確信に向かって歩きだしていく。

「キス、しちゃいました。遠野さんと」

!!!??

 浴びせられた、人生最大の衝撃。

 望んでもいないのに今自分がされた光景が頭に浮かんでくる。

(先輩のちっちゃな、唇が……私の唇、に……?)

 すさまじい動悸がしてきて、体中が羞恥で熱くなっていくのを感じた。

(え? な、なんでそんなことされたの? え……?)

 顔を真っ赤にしながらも、何がおきたのかわからなくて呆然とベッドの前に立ち尽くす。

「遠野さん? どうかしましたか?」

「っ!!?

 先輩がいつの間にか近づいてきてて私ははっとなった。

「な、なにするんですか!!!? い、いきなり……き、キスしてくるなんて!!

「お願い、聞いてくれるって言ったじゃないですか」

「そ、それは……で、でも、わ、私……私……」

「もしかして、初めてでした?」

「っ………」

 図星を突かれて私は顔から火でもだすかのように頬を染める。

 ファーストキスにそこまでの理想を抱いていたわけじゃなかったけど、こ、こんな会って三日の女の人に奪われるなんて……

「運命ですね。私も初めてでした」

「は?」

 ひどく混乱した私の先輩はあっさりと言った。

「は、はじめてって……」

 先輩もファーストキスで……それを私にしてきて……? 

 ますますわけがわからない。なんでこんなことをしてきたのか。何もわからない。

 どうすればいいのかもわからなくて私はただ先輩を見つめていると

 キーンコーンカーンコーン。

 休み時間の終わりを告げるチャイムがなった。

「おっと、授業が始まっちゃいましたね。さて、たまには授業に出てみますか」

「え、あのっ……」

 固まったままの私をよそに先輩は筆記用具を持つと出口に歩いていった。

「遠野さんも授業遅れちゃいますよ? それでは、またお会いしましょう」

 音を立てて出て行く先輩。

私にできたのは先輩がいた散らかったベッドを見つめながら

(なんなの、あの人―――!!!???

 と思うことだけだった。


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