それから数日は何事もなく過ぎた。千秋さんとは話をできず、蘭先輩のありがとうの意味も分からないまま無為に時間を過ごしてた。

 この日も二人を気にしつつも行動は起こせないで部屋で冬海ちゃんと二人きり。

 共用のテーブル私はほとんど身にならない課題のプリントに向き合い、冬海ちゃんはそんな私を見つめている。

 いえ、冬海ちゃんは見つめているじゃなくて要求をしている。

 冬海ちゃんに千秋さんのことを尋ねて以来冬海ちゃんとはキスもしていない。千秋さんのことが頭から離れずとてもそんな気分になれない。

「…………」

 冬海ちゃんがそれを不満に思っているのはわかっているわ。勝手だなんて私自身よくわかっている。

 でも、こんな気持ちのまま体を重ねるなんてできない。今までだって最低なことはしてきたけれど、他人を思って冬海ちゃんを抱くなんてそれは絶対にしちゃいけないこと。

「……鈴さん、あの」

 けれど冬海ちゃんは私の気持ちを知ってか知らずか妖しい瞳で熱のこもった声を出す。

「…………」

 気持ちがわかる私はなんといって断ろうかと悩んでいると

 コンコン

 と控えめなノックの音。

「入るよ」

(っ!!??)

 返事を待たずにそう言って入ってきたのは……

「千秋さん」

 いつ以来だったかわからない千秋さんの来訪に私は目を丸くする。

 千秋さんは私と冬海ちゃんを交互に見た後、小さくけれどはっきりと私の名前を呼び

「……来て」

 短くそう言った。

 どこかこれまでと違う響きを持つ千秋さんの言葉。不思議と心を揺さぶってきて、私は

 考えるより先に頷いていた。

 私が冬海ちゃんにその旨を伝えて千秋さんのところへ向かうと千秋さんはすぐに私に背を向けて「こっち」と歩き出してしまった。

 私は隣ではなくて、一歩下がった場所から彼女の背中を見つめて歩く。

(……………何かあったの?)

 千秋さんはこれまでと違って見えた。この数日は、常に暗い雰囲気を漂わせていて私に限らずほとんどの人が話しかけることすらできなかったのに。

 背中しか見ていないけれど、今はそういう悪い意味での壁を感じない。憑き物が落ちたというか、少しだけ大きく見えた。

(あれ……?)

 そんなことを思いながら歩いていくと、気づけば階段を上がり人気のない階へとやって来てて……

 自然と鼓動が高鳴ってしまう場所で千秋さんは足を止めた。

「……入って」

「っ………」

 呼吸が荒くなる。体が熱を生産する。私が変わってしまった場所を目の前にして緊張が止まらない。

「…………」

 千秋さんはそんな私を一瞥して先に部屋に入っていき、あのベッドに腰を下ろした。

 今更逃げ出すわけにはいかずに私は意を決して部屋に踏み込んで千秋さんの隣に座る。

「あの……」

 普通に話すには少し距離を保って千秋さんの様子を伺うといきなり「私さ」と話しを切り出してきた。

「?」

 一瞬なんのことなのかはわからなかったけれど千秋さんの表情がこれまでに見たことのないような表情でその中に千秋さんからあまり感じることのなかった眩しい光を感じて自然と私は黙ってしまった。

「昔、って言っても一年くらい前の話だけど。テニスやってたんだよね」

「…………」

 この前に冬海ちゃんに聞いた話からどこにつながっていくかをなんとなく察して、私は小さく頷く。

「これでも結構うまかったっていうか……そもそもこの学校もそれの推薦で入ってるんだ。地区の代表とか、国の強化合宿とかにも出てたくらいなんだよ。ほんとに好きだった。子供の頃からずっとやってて……みんなすごいって言ってくれたし、褒めてもくれて、私は誇らしかった」

 そう語る千秋さんは懐かしそうで、それ故に……その後のことが想像ついて辛くもある。

「まぁ、今やってないってことはそういうことなんだけどね」

「……理由を聞いても?」

「よくある話。練習のしすぎで肘をおかしくした。続けられないわけじゃないけど……期待に応えられる様な選手じゃなくなったのは確かだよ」

「……………」

 私はこれまで何かをそこまで励んだことはないけれどそれでも想像はできる。それがどれだけ絶望的かということは。

「………それからは荒れたよ。自分の価値が見えなくなった。テニスのためにこの学校に来たのに、それを失くした自分に何の意味があるのかってさ」

 それは闇の中をさまようような気分なのかもしれない。どこに何があるかも見えず、何を目指せばいいのかもわからず自分の立っている場所すらわからなくなるようなそんな恐ろしいところに千秋さんはいた。

「……それで……蘭先輩と……?」

「……そ。なんかあまりに典型的な話だけどさ、蘭先輩は優しくしてくれた。何もできないって、なんの価値もない、どうして生きてるんだろうって思ってすらいた私に優しくしてくれた。それだけが貴女じゃないでしょうって」

 典型的かもしれない。ありがちかもしれない。けれど、つらくて一人で立っていられないような時に手を差し伸べられたらその人が……天使にも見えるのかもしれない。

「……………」

 蘭先輩がどういう意図なのか私にはわからない。あの人のことならただ自分の悦楽のためと思えもするけれど……今はわからない。

「……好きに、なった」

 そのこと自体は千秋さんにとって決して悪い思い出ではないはずなのに当時を思い出している千秋さんの表情には切なさしかない。

「テニスができなくなって、周りの友達も変な距離を取る様になって……けど、あの人だけは私を認めてくれたの。何にもない私を認めてくれた。だから私はお姉さまを好きになって……お姉さまを独り占めしたかった」

 それは刷り込みに近いものなのかもしれない。迷子の子供が母親にすがったようなものかもしれない。

 千秋さんにもその自覚はあるのだろうけど、そんなきっかけなんてどうでもいいのかもしれない。

 大切なのは千秋さんが蘭先輩に救われ、想いを寄せたこと。

 そして、千秋さんはわかっている。自分の想いが叶わないであろうことを。

 今にも泣きそうな千秋さんの表情がそれを物語っている。

「知ってるよ……あの人にとって私は大勢の一人でしかないって。ただ、私を慰めてくれたに過ぎないって。そういう人だもん」

 そう、千秋さんに限らず蘭先輩に想いを寄せる人は他にもいるのかもしれない。でも、関係を持った人ならわかる。

 自分だけが特別なわけではないということを。

 それをわかっても想いを捨てられないのが恋なのかもしれない。

 私がそうなように。

 自分と千秋さんを重ね、胸が締め付けられるような想いを抱えていると耳を疑うような言葉が千秋さんの口から放たれた。

「……好きな人がいるんだって」

「え………?」

 耳を疑ったし、言葉を失った。どういう意味か正確にはわからなかったのに悟った。

 本気で好きな人だっていう意味なことを。

「今日の放課後……お姉さ……蘭先輩に呼び出されて聞いたんだ。本気で好きな人がいるんだって。だから私の気持ちには応えられないって」

「……………」

 千秋さんがここで嘘をつく理由なんてない。つまり、本当だっていうこと。

(……好きな人がいる?)

 それならどうしてあんなことを……?

 蘭先輩の普段の態度から嘘だと思ってもいいのに私は千秋さんの言葉が真実だと受け入れていた。

「……鈴が蘭先輩に言ったんでしょ。引導を渡してやれって」

 私が蘭先輩に思考を奪われていても千秋さんはそのまま話を続ける。

「それは………その」

「あは、怒ってはいないよ。いつかこうなるのはわかっていたんだから」

 さばさばとした表情でそれをのべる千秋さん。それも本音なのだろうけど

「っていうかさ……いつかは、こうなるってわかってた。ううん、それどころか……終わるきっかけを探してたのかもしれないし……」

 声を震わせながら自分に言い聞かせるようにしている姿もまた本音なのだろう。

 胸が締め付けられるような千秋さんの姿。そこには偽りのない千秋さんを見た気がする。千秋さんは蘭先輩のことばかりを見ていて、他の人にはどこか興味なさ気だった。

 でも、想いの対象を失い迷子のように小さくも見える。

「蘭先輩が私を好きじゃないなんてわかってたし……いつか終わりが来るのも知っていた。このままじゃいけないなんて言うのもわかってた」

 私へと語りかけているのか自分へと言い聞かせているのかわからない。一つ言えるのは間違いなく本当の気持ちを吐露してくれているということ。

「納得は、してるつもりなんだ。だって、わかってたことなんだから」

 徐々に千秋さんの声が歪んでいく。私を尋ねてからずっと固めていた表情が崩れていく。

「けど……けどさ……」

 千秋さんがどうして私をここに連れてきたのかはわからない。

 蘭先輩の背中を押したのが私だからなのか。私に対して何か含むものがあるのか。ただ一人では蘭先輩の告白を受け止める自信がなく、多少なりとも気持ちを分かり合える相手として選んでくれたのか。

 それは私にはわからない。問いかけてもいけないのだと思う。

 だから私は

「こんなにつらいんだね……」

 涙を流し始めて千秋さんのことを抱き寄せると

「鈴……」

「千秋さん」

 自然と見つめあって

「……………」

 それ以上言葉もないまま

「んっ……」

 口づけを交わした。

6−4/6−6

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