どうしてここに来てしまったんだろう。
私はその部屋の前で立ち止まりながらそれを思っていた。
蘭先輩を見送った後、一年さんとはほとんど会話をしなかった。二人の関係は気になったに決まっているけれど、でも聞けなかった。
聞けば答えてはくれたかもしれない。一年さんは私に借りがあるのだから。
でも、そんなので蘭先輩のことを知っても意味がないような気がした。
(瑞奈さんの言っていることも間違いじゃないかもしれない)
好きな人ではないけれど、自分で聞かなければ意味がない。人から聞いただけの話で分かった気になっても蘭先輩の心には届かないから。
だから私は決意をしてこの場所に来た。
ただ一つ気がかりなのは冬海ちゃんのこと。無断で夜部屋を開けることになるかもしれない。
(………でも、今は)
今だけは頭の中から消そう。他のことに気を取られてたら蘭先輩に失礼な気がするから。
「………………」
心の中を整理した私は大きく息を吐いて、扉を見つめた。
私が変わったその部屋のチョコレート色の扉を見ては胸に痛みと切なさを同居させる。以前はこの場所を怖いとも思ったけど、今はそれとは別の感情がある。
その感情の正体はよくわかっていない。自分の中にあるのは確かだけれどその場所に意識を向けようとしてももやもやとした霧がかかって見通せない。
その霧を晴らすには今ここで向かっていかなきゃいけないの。
「失礼します」
ノックもしないで、ドアを開けると
「っ……」
事前に瑞奈さんに教えてもらった通りに蘭先輩がいた。
(……遠く感じる)
ベッドの上であおむけになる蘭先輩。
ひどく小さく、また幼くも見えて庇護欲を駆り立てる。まるで焼野原に一人取り残されたようなそんな憐憫すら感じさせる蘭先輩に私は近づいていくと
「………何しに来たの」
私を確認した蘭先輩に低く重い声を投げかけられた。
「ええと……」
なんと答えるべきか逡巡した後、
「気になった、からです」
素直に答えた。
それ以外に答えようがなかったから。あの時去っていく蘭先輩がすごくもろそうに見えて放っておけないとも思ったけれど、それ以上気になったから。
一年さんの怯えたような目、明らかに避けているような態度。好きな人からそんな目で見られて逃げるように去っていった蘭先輩。
その姿が頭から離れてくれなかった。
「なにそれ? 理由になってないわよ」
「かもしれないです……でも」
「用がないのなら出てって。一人になりたい気分なの」
「………嫌です」
淡泊に会話を続けていたけれど私が拒絶の意志を告げると、そこでようやく蘭先輩は起き上がって、けだるそうに私を見た。
どんよりとした濁った瞳。そこには私を見ているようで、ここではないどこかを思っているような気がした。
「……私、今優しくなれる気分じゃないの。出て行きなさい」
唇から紡がれる言葉は明確に私への嫌悪があって、恐怖は感じた。けれど……だからこそ
「嫌です」
「……………」
沈黙は長くはなかった。蘭先輩は数秒黙ったかと思うと
「きゃ!?」
急に私の腕をつかみベッドへと引きずり込んだ。
「った!」
腕を押さえつけられて身動きできないままに押し倒されるような形になる。
「……ふ、ふふ……優しくないって言ったでしょう。ここにいるのなら、私を楽しませなさい。紛らわせなさいよ」
「あっ……」
手慣れすぎた手つきで私の服をはぎとり、直に肌に触れる。
久しぶりの蘭先輩の指。細くてしなやかなそれが私のお腹に触れ、徐々に上へと昇ってくる。
「ん……ぁ……」
ゾクゾクとした感覚が背筋に走り、か細い声があふれた。
「だ、め……です……」
「なぜ? いいじゃないもう何度だってしたでしょ。気持ちよくしてあげるから、私のことも気持ちよくしてよ。何にも考えられないようにしてあげるから、私も同じようにして」
「っ……」
それを受け入れた時期もあった。私にとって蘭先輩の提案は受け入れがたいことじゃないのかもしれない。
でも、
「やっぱり、おかしい、ですよ……こんなの」
私が言っていいことじゃないことくらいわかる。そんな資格なんてない。でも、そう思う気持ちは確かにあるし、ましてこんな状況ならなおさらおかしいと思えた。
「っ………ぅ……」
「? 蘭、先輩?」
私は今の言葉が意味を持つとは思わなかった。ただの無為な抵抗でしかないと思っていた。
なのに
「……貴女、までそんなことを言うの?」
蘭先輩は我を失ったかのような言葉を、心を震わせ乾いた声を出した。
(貴女、まで?)
いや、言われていてもおかしくはない。きっと今までだって言われているだろうけど、ここで私以外を指しているとしたらそれは……
(一年、さん……?)
「っ………」
物事にはタイミングっていうのがあると思う。同じことをするにもその時、その人が何を思っているかによって受け取り方が違ってくる。
今蘭先輩は揺らいでいる。一年さんと顔を合わせてしまったことによって心の奥にしまい込んで鍵をかけたはずの気持ちが、私のおかしくないはずの一言で表に出ようしているんだ。
「だって、だって私は……そうやって育ってきたんだもの。教えられてきたんだもの。なのにどうして……みんなおかしいだなんていうの?」
(教えられて……?)
「傷つけるつもりなんてなかった、のに……おかしいことだなんて知らなかっただけなのに」
もう蘭先輩は私と話していなかった。自分と、もしくは自分の中にいる誰かに語り掛けていて
「……うぁ……あ……」
涙を流し始めた。
(……蘭、先輩)
衝動的に抱きしめてあげたくもなった。触れてあげたくもなった。
「…………」
体を起こして、手を伸ばすまではしたけれど……
「っ……ぁつ…あぁっ」
押し殺すように嗚咽を漏らす蘭先輩に触れることはしないで過去の何かに涙する姿を見つめることしかできなかった。