それから早瀬とは一緒にいることが多くなった。
仕事中に雑談することもあれば、一緒に飲みに行ったりもする。
休日には働き始めてから初めて他者と映画や買い物に行ったりと、友達にはなった。
それは私にとって存外楽しくもあったが、友人の方はそれだけではないようだった。
簡単にいうのなら、早瀬はまだ「彼女」のことを引きずっていた。
二人で飲んでいるときには未練を語られたりどれだけ好きだったかを告げられたりと、さらには何度かその「彼女」の名前で呼ばれたりと、まだまだ早瀬の中に彼女がいるのだと嫌でも知った。
そのことは別にいい。
いや暗い雰囲気になるのはよくはないが、そうなってしまう気持ちはわからないわけじゃないから、あえて指摘することもなかった。
結果として早瀬は終わった恋を引きずったまま私との時間を持っていた。
それはつまり私と同じ傷を抱えながらということ。
◆
その日はもはや私たちにとってはよくある日の一つだった。
仕事の終わり飲もうという話になり部屋に行っていいかと問われた。
部屋に来たいと言われるときは大体早瀬の気持ちが落ちているとき、「彼女」のことを思い出している時だ。
それがだめというわけではない。
気持ちが沈むのはわかる。そんな時に誰かといたいという気持ちも。
「はぁ……」
すでに飲み始めてから何時間か経過し、早瀬からはため息が多くなっている。
早瀬の落ち込み方は大体パターンが決まっていて、最初は思い出話から始まる。
こういうことをしたとか昔はこうだったとか。
それが少しずつ後ろ向きな内容に変わっていき、時には泣き出し時にはこうしてため息をついて黙る。
意識を自分だけに集中しているのか、会話はほとんどなくなり私も積極的に声をかけない。
(……たまに早瀬がうらやましく感じるときがある)
そっとしてあげた方がいいだろうと早瀬から離れベッドに腰掛けた私は、うつむく早瀬を眺めて場違いなことを思う。
振られて落ち込む相手の前で思うことではないが、それは私の本音だった。
早瀬には「私」がいるのだから。
感情を吐き出し、受け止めて慰めてくれる相手がいる。
それは幸運なことだ。
恋人と別れた悲しみを一人で抱えるしかない人間もいるのだから。
「…………」
胸の痛みに服を握りしめた。
(まだ痛いのか)
心の奥にしまった感情。あるのを知っていながら蓋をして、目を背けてきた気持ち。
(あの時、私にも誰かがいてくれたら……)
こんな冷めた人間にもならなかったかもしれない。
(ったく)
思い出したくもないことを思い出し、心で悪態をつき思考を早瀬へと戻す。
本気で考えだしたら私の方こそ泣いてしまいそうだから。
「あ……は……は、ほんと何が駄目だったのかなぁ」
(今日はまた一段とひどいわね)
早瀬の問いに対する回答は持ち合わせておらず、返答には困ってしまう。
そもそも私に言っているのか自問なのかも不明だ。
安易に言葉を出す場面ではなく、私は早瀬を見つめ
(…くそ)
一度意識してしまった痛みが早瀬の姿を自分と重ねてしまう。
一人、苦悩と傷を抱えるしかなかったあの頃。枯れるほどに涙を流した日々。
何がいけなかったのかと振り返り、正解を得ることもできないのに後悔をし続けたあの絶望を思い出してしまう。
もう振り切ったつもりなのにきっかけがあればこうして私の前に現れてくる。
(消えてよ)
目の前に現れた自身の幻影。
苦々しい思いに心が乱される。視線の先にいるのは早瀬であり、私で。
その幻影を消し去りたくて。
「……いつまでそうしているつもりなのよ」
気づけばそれを口にしていた。
(あ……)
言った瞬間にしまったと後悔をした。だが、半ば自分に言っていたとしても口にしたものは取り消せるはずはない。
「っ………なんて、言ったの?」
不穏な空気は感じたし、立ち上がりこっちに近づいてきたのも普通ではない反応だった。
当然だ。傷口に塩を塗りこむ行為に等しいのだから。
(…いや、でも)
同じ痛みを与えているのでも、私にならともかく早瀬には消毒になるのかもしれない。
(いつかは言ってあげなきゃいけないことでしょ)
友人が過去ばかりに囚われることを決して快くは思っていないのだから。
自分を棚に上げているかもしれないし、きっかけは痛みを誤魔化すためだったかもしれないけれど、早瀬が少しでも立ち直るきっかけになるなら
「過去ばかりを見ても、救われないってことよ」
このまま悪者になってもいい。
「…………」
腰掛ける私を無言で見下ろす早瀬。
「後悔しても戻りようがないのなら、忘れた方がいいわ」
「……めて」
私の行為は正しいとは限らない。私は私の選んだ答えを早瀬に押し付けているだけなのかもしれない。
それでもずっと引きずり続けるよりはましだと思えるから。
「……もうその恋は終わったんだから」
「やめてよ!」
今度は無視のできない声量と、怒りとわずかなやりきれなさを感じさせる表情。
おそらく踏み込んではいけないラインを越えてしまった。
それでも今ならまだ頭を下げることで後戻りはできたのかもしれないが、今更引くつもりはなくて
「なら一生そうするつもり?」
早瀬が今一番言われたくない類の言葉を吐いた。
「あんたはたった半年の恋をこの後もずっと引きずっていくの」
一生背負うわけはない。
今はどんなに苦しんだところでその終わりは来る。胸を支配していたはずの気持ちは徐々にすり減りいつしか気にも留めないような大きさになる。
それが人間の心というものだ。
この痛みもいつかは消えてくれる。
……消えてしまう。
もっとも未だにその痛みを引きずっている私がいっても説得力はないかもしれないが、同時に絶対のことだという確信もある。
「………っ」
早瀬は言い返しては来ず、奥歯をかみしめている。反論が出ないということは程度の差はあれ早瀬もわかってはいるということだ。
「…ぁ、…う」
言いたいことはあるんだろう。だが、胸の内からあふれる感情は言葉にはならず、口の形を変えるだけ。
そこに複雑な感情が混ざっていることが強く伝わる。
怒り、悲しみ、切なさ、辛さ、苦しみ、憎しみ、後悔。
それらが混ざり合い、出てきたのは
「ぁ………」
声ではなく涙だった。
「わかってる、よ……忘れたいに、決まってる……じゃん」
「早瀬…」
泣かせることは覚悟をしていたし、この涙はむしろ私の望むものなのかもしれないが、気持ちのいいものではない。
「こんなのつらいだけってわかってる。でも忘れられないんだよ。忘れたくても…忘れられない……っ」
涙をあふれさせ、悲痛な声で訴える。
「ねぇ文葉? どうすればいいの?」
ベッドに手をつき、私へと迫る早瀬。目の前のその顔に目を奪われる。
(なんて余裕のない顔してるの)
張り詰めた早瀬の心。今にも壊れてしまいそうなそれにこちらもひるんでしまう。
この涙は先ほど思ったようなものじゃなくてただ追い込まれた末の痛みでしかないのかもしれないと。
「教えてよ……助けてよ…文葉……ぁ」
私に縋るしかない早瀬は徐々に私へと迫り、その勢いに押されて体を引く私は
「…ぁ…」
ベッドへと倒れこんでしまう。
「…ひく……ぅ……ぁ…ひぐ」
体の上に落ちた早瀬は嗚咽をこぼす。
「ぅあ……ひっく……ねぇ、ふみは……ぅ、く……ひぐ」
湿った体温、濡れた感情と顔は見れずとも溢れた涙を感じる。
「…助けて、よ……ぅぁ……ぅ、っく……忘れ、させて、よぉ……」
(くそ)
もともと絶対の自信があっての行為ではなく、取り乱す早瀬には罪の意識を感じてしまう。
前を向かせる目的は果たせず、単に心を折ってしまったのではないかと。
「ひぐ…うぅ…ぁ……ぁっ。ひぐ……っう…ぁ」
罪悪感は膨らみ何も言えなくなってしまった私は早瀬の嗚咽を聞くことしかできない。
それは最初の日を思い出させるものではあったけど、違うのは互いへの意識が変わっていること。
心許せる相手になってしまったこと。
「ひっく……………っん………」
どれだけ泣き続けたのか時間の感覚は曖昧。
十分程度かもっと経っていたかとにかく、早瀬はほとんど体を震わせることもなくただ私の胸に顔を埋めていた。
「ねぇ……文葉」
濡れた声にはどんな気持ちが込められているのだろう。
「何、早瀬」
優しく声をかけることしかできない自分は不甲斐ない。
「文葉が、さ…………………………………………」
長い沈黙。そこから出たのは
「忘れさせてよ」
正気では吐けない言葉で。
(…っ)
その意味を解して動揺した。
感情を吐き出し、空になった心が求めたそれは自暴自棄にしか思えない。
「…何、考えてんのよ」
「…何も、考えたくない」
(…っ。私は、間違ったの…?)
前を向いてほしい。そのきっかけになればと思っただけのはずなのに。
自分の軽率な選択がこれほどまでに早瀬を追い込んだ。
断ることは早瀬をさらに追い詰めることになるだろうか。
諭せたとしても、きっと以前と同じような友人には戻れない。
(…どうする?)
傷つけた責任はある。
誰かに寄り添ってほしいという気持ちも理解できる。
(それに…)
何故か一瞬、早瀬に傷ついた自分を重ねてしまう。
(何故かじゃないか)
私も私の恋を失った時「忘れたい」と願った。
誰かに甘え寄り添ってほしいと思った。
この苦しみから逃れられるのなら、一時でも考えずに済むのならと。
寄り添ってくれる相手が誰でもいいわけじゃなく、私にはそんな相手はいなかったし、今も同じように考えているわけではない……はずだけど。
(まぁ……いいか)
過去の自分が救われるわけじゃない。早瀬にとってもいいことではないかもしれない。
それでも、存外に断る理由は少なく逆に受け入れる理由はいくらか思い浮かんで、心の天秤が傾いていた。
「早瀬」
出来る限り優しく名を呼び背中に腕を回す。
小さく感じるその体をぎゅっと抱きしめる。
「……文葉」
私の心の動きを察したのか早瀬は頭を上げると、その涙に濡れた顔から
「…ありがとう」
今は聞きたくなかった謝辞に聞き私たちは初めてを迎えていく。