(ったく、すみれのやつ)

 翌日、だるさの残る体を引きずって出勤した私は心で悪態をつく。

 私とすみれは基本私がする方だけど、すみれがしてくれることもあって昨日は今日が仕事だってのに珍しくやり返されてしまった。

 すみれが頑張ってくれるのはかわいいしいいんだけど、痕が残ってる部分もあるし何より単純に寝入るのが遅くなり眠い。

 しかもすみれは午後からだというのがまた苦々しい。

 もっとも先に誘ったのは私だから文句をいっても始まらず、その愛に応えるためにも早瀬と話をしたい……のだが。

(こっちも中々上手くいかないのよね)

 昨日のように始業前に話そうとしても理由をつけて断れてた。

 それ以降も何度か話そうとはしたが、あからさまに避けられている。

 昼から出勤してきたすみれにはまだ何の成果もないのとあおられる始末だ。

 心と体が疲れながらも、仕事をさぼるわけにもいかず閉架図書の整理に来た私は。

「…と」

 思わぬ機会を得る。

 閉架図書は性質上、明度が低くまたスペースの関係上通り抜けできない場合も多い。

 つまりは

「…文葉」

 通路側からくれば先にいる相手の逃げ道をふさいだ状態になれるということだ。

(これは想定外の展開ね)

「偶然ね」

「そんなこといって、つけてきたんじゃないのー?」

「ほんとに偶然よ」

「そ、まいいや私は戻るから」

 当然道をふさぐ。

「つれないこと言わないで少しくらいサボりましょうよ。滅多に人が来ないんだし」

「私は文葉と違って真面目なんだけどなー」

 どの口がといいたいところだが、どこまで軽口をたたいていいのかはわからず、言葉を止める。

 すると、早瀬は私の顔を覗き込むようにした後、いたずらっぽく笑った。

「なら、『昔』みたいにサボってみる?」

 それがどういう意味なのか体で知っている私は一瞬ひるむが、そうして挑発をするほどに早瀬は私と話したくないということで、その意思が逆にかたくなにさせた。

「あんたが素直になってくれるならそれもいいかもね」

「うわ、ひど。彼女がいるくせに。言っちゃおうかなー」

「冗談はさておき、私の言いたいことは伝わってるんでしょ。そっちのことに何らかの反応を返してほしいものね」

 一転、言葉を強くし昨日よりも心に踏み込む。

(手を伸ばしたのよ、はっきりと)

 手を伸ばすことにも勇気が必要で、その手を取るのにはそれ以上の勇気が必要かもしれない。

 それでも他ならぬ私の言葉なのだ。私の手なのだ。

 ここで何も思わないような奴じゃないのは私が一番知っていて

「……っ」

 まっすぐな感情に早瀬はバツ悪そうに私の顔から眼をそらした。

 それがまずかった。

 視線を散らす早瀬に、いい兆候だと勝手なことを思う私は自分の身体の状態をきちんと把握してなくて

「…………それって」

 早瀬に『痕』を見られてしまう。

「それってさー、キスの痕?」

 首元を指して、一転にやつく早瀬。

「っ……」

 昨日痕を残されたということを意識してもどこかを完全には把握していなかった不覚。

 咄嗟に手で押さえたのは早瀬の疑念への回答にしかならなくて。

「ラブラブだねぇ」

「今はすみれのこと関係ないでしょ。話をそらさないで」

 矛先をそらす隙作ったのはこちらだが、ここで何の進展もなく早瀬を逃がすつもりはない。

 ……後から思えば、そもそもこの認識の違いが互いにとってもまずかったのだろうけど今の私は気づかない。

「文葉にしては食い下がるね」

 あくまで飄々とする早瀬に覚悟……そう覚悟を決める。

 恥ずかしくても、ここで早瀬を逃せば早瀬を信じられなくなってしまうから。

「食い下がるわよ。あんたは私の特別なんだから」

「だからさー、それ恋人がいるのに言っていいことじゃないでしょ」

「すみれがいても、あんたを特別って思うのは変わらないわよ。あんただってそうでしょ」

「…そりゃ、私の方こそ文葉は特別だけどさ」

 こちらを薄く見て早瀬はわずかに心をさらしてくれた。

 重い雰囲気と陰りのある表情、弱弱しいその姿は早瀬らしくない。

 私以外から見れば。

「あんたがそうなのと同じで私だってあんたに感謝してる。昔のことだけじゃなくてね」

「知ってるし、私も同じ」

「なら、話しなさいよ」

「……困ったねぇ」

 ひかない私に早瀬はどこか茶化したようにそれでいて、本当に言葉通り困ったようでもいて。

「いくらすみれがいても、あんたがいつも通りでいてくれないと私は…っ」

 言葉が止まる。

 早瀬が私の口元に指をあててきたから。

 人差し指を立てて、しぃっとやるように。

「それ、言わない方がいいんじゃないの?」

 自覚はある。

「すみれの前じゃ言わないわよ」

 恋人としての愛とは違うのはすみれだって理解してくれるだろうが、言われてあのすみれが妬かないわけはないから。

「そーいうことじゃないんだけどねー」

 微妙に会話が、気持ちが行き違っている。

 多少の違和感はあったのに私は気づいていない。

「じゃあ、どういうこと……よ…?」

 早瀬に目を、奪われた。

 早瀬は笑っていた。

 笑っていたのに、寂しそうで……悲しそうで、泣きそうで、消えてしまいそうで。

 でも、笑っていて。

「はぁ……ま、いっか」

 諦観を含んだそれは、私を硬直させるには十分な感情を持っていて。

「……ちゅ」

 固まる私に早瀬は口づけをした。

 口と口ではなく、すみれからの痕の上に。

「は…?」

 まずは衝撃。

 それから様々な理由が頭に浮かんで、その答えが自分の中で出る前に

「それじゃ」

 乾いた声が心に響いていた。

 

 ◆

 

 早瀬とはあのキス以来話すことはなく、今日はすみれよりも先に家へと帰った。

 すみれが帰ってくるまでに夕ご飯を用意しながら早瀬を思う。

「……考えたくないけど」

 『二人』にキスをされた所に指で触れる。

 痛みも熱もないはずなのに、やけに熱い気がする。

 でも同時に冷たくもあって。

「ほんと、考えたくないわよ」

 早瀬がキスをした理由。

 考えたくないし、答えも出したくない。

 それはすでに自分の中で方向性が見えているからこそで、答えは出ているようなものだ。

 でも自分の中ではっきりとした形を持ちたくない。

 いつかは向き合わないといけないというのをわかってはいてもだ。

「……すみれには、どうするべきかしらね」

 目の前の悩みから目をそらし、別の問題へと目を向ける。

 今日のことを話す必要はあるだろうか。

 隠すことは可能だろう。証拠があるわけではないし、早瀬が話すとは思えない。

 だが隠すことができるとしても、それが正しいことかといえば……私としてはノーと答える。

 私はこう見えてもそんなにまじめな人間じゃない。

 例えば仕事でミスをしたとしてもそれが隠せることで、のちに何か問題を残すようなものじゃなければ隠すような人間だ。

 今回も隠せること…だが。

「そういうわけにはいかないか」

 すみれが怒るのか悲しむのかはわからないが、すみれに対しては誠実でいたい。

 ただ、そこで問題なのはその影響だ。

 先ほどの悩みとはつながっていて、すみれに話せば確実に理由が問われる。

 真実は早瀬にしかわからないとしても、私の見解を告げる必要はあるし、それに早瀬との過去を隠すのもできないだろう。

「…………」

 調理の手を止めてキス痕に触れる私は、二人の顔を思い浮かべて……

「……そうよね」

 心の方向性を決めていた。

 

 ◆

 

 心の指針を定めた私はすみれを出迎えると一緒に夕食をとった。

 決めていたおかげもあってその時点では緊張を表には出さず、終わりに片づけたら話がある、と短く伝えた。

「それで話って?」

 食事の後、片付けまでを終えて寝室ですみれと向き合う。

 リビングの方でよかったかもしれないが、ただ話すというだけじゃなくて、話すことで起こる先を思えばここが、早瀬と多くを過ごしたこの部屋がいい。

「予想はついてるだろうけど、早瀬のこと」

「でしょうね。上手く話せたの?」

 早瀬のこと、というのは予想しても今日あったことを知るはずもないすみれはあっけらかんと言ってくる。

 その何も知らないが故の反応に心を挫きたくもなるがそういうわけにもいかない。

「……キスされたわ」

「……ふーん」

 私がキスされたときのように現実を受け入れられずに固まるかと思ったが、意外にもすみれは冷静だった。

「どこに?」

「え?」

「だからどこにされたのかって聞いてるのよ」

「あ……ここ、だけど」

 キス痕に指をあてると

「そ」

 短く告げるとすみれは私との距離を詰めて

「っ!」

 指をあてた場所にキスをした。

「ちゅ……っん、ちゅぅ…ぅ」

 いや、そんな生易しいものではなく唇を挟んで強く吸う。

「ちょ、っと……すみ、……れっ!?」

 さらに吸うだけにとどまらず歯を立てた。

「っ…ん、あ、む……っぅ」

 明確な痛み。口腔の暖かさと痛覚の熱さ。

 その愛の痛みを抵抗はせずに受け入れる。

「……っ、は……ぁ…っ。れろ」

 口を離すと最後に一舐めして私を開放した。

「…………」

 すみれの瞳が私を射抜く。

 怒っているのではない。悲しんでいるわけでもない。

 心が読めるわけじゃないが、感じた感情をあえて言葉にするのなら悔しさ、だろうか。

「…キスなんてされてんじゃないわよ」

 状況を知らずとも不意打ちや、動揺がなければ私がさせないとわかってくれた上でのそれはすみれからしたら負け惜しみに近いのかもしれない。

「…ごめん」

 言い訳は必要なく短く謝罪をする。

「あんまり驚いてないのね」

「驚いてるわよ。でも、もしかしたらくらいは思ってたから」

 …明確には口にしてないが早瀬の気持ちのことだろう。

「けど、さすがにもう何も知らないままじゃいられないわ」

 膝の上にあった手に手を重ねてくるすみれ。

「…話しなさいよ、昔のこと」

 瞳はわずかに潤み、表情は固さが宿っている。

 口調や表面上の態度ほど落ち着いてないのは伝わり、重ねられた手を握り返すと

「…えぇ」

 誰にも話すつもりのなかった過去を、一番話したくなかった相手へと告げていく。

後日談4−1/後日談5−1  

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