気をよくしたのかすみれはその日の午後も終始期限がよく、珍しく饒舌で以前にここに来た時のことを語ってくれたりもした。
乗馬は子供の頃海外で習ったことを聞いた時などはそもそも帰国子女だったことすら知らなかったので、驚くと同時に若干納得もした。
現代ではそぐわない考えだけれど、明治や大正時代あたりなら留学しているイメージがある。
機嫌のよさは夜まで続き、ホテル内のレストレンでの食事の間も、レストランとは別のバーに誘われそこでも午前の乗馬のことで私を弄ってきて、子供っぽいとは思っていたけれど本当に子どもみたいなことをしてくるのが、正直に言って可愛らしかった。
思えば、すみれと付き合い始めてからすみれはどんどん弱くなっていった感じがあるしね。
最初私が遠慮してことを含めても、力関係は知り合った当初とはまるで違っている。
それこそすみれが優位に立っていたのなんてはるか昔のことだ。
(……すみれ、上になるの好きそうだしね)
戻ってきた部屋の中、ベッドで横になるすみれを眺め手帳へと記す。
「ん……ん、ぅ……」
部屋に戻ってきた後、すみれは酔いが回っていたのか戻ってきた後少し横になるといいそのまま寝入ってしまった。
相も変わらず無防備なことだと呆れもするし、もはやすみれらしいと受け止めることもできる。
まだ夜は深くなく、どこかで起こしてあげるべきかとも思うがひとまずは窓際でお茶をとりつつ手帳を開いている。
「あふ……ふひゃ……文葉……ふふ」
「……何の夢を見てるんだか」
おそらくは自分に都合のいい夢でも見てるんでしょうね。
そこまで嬉しかったのかと疑問に思いつつも、すみれは性格的に風下に立つのをよしとしない。
これまで私ばかりが余裕を持っていて、すみれがそれをストレスに思っていたわけではないだろうけど私には優位になっておきたいという願望はすみれの中にあると思う。
「だからって、ほんと子供よね」
昼間の無邪気な笑顔を思い出して、つい口元が緩む。
(でも)
楽しかった。と記すと手帳をテーブルに置き、ベッドへと上がる。
「……ん、ふ…」
すみれの隣に腰を下ろし、無防備な寝姿を見つめる。
こんな姿でも純粋に美しいと思える。
端正な顔立ちも、さらさらの髪も、バランスの取れた肢体も間違いなく私を惹きつけてはいて、それに加えて昼間のあの姿だ。
「……すみれ」
私たちの間には確かな差はある。妙な言い方だけどいうなれば貴族と平民だ。
しかし本当に身分の差があった頃とは違い、分かり合うことは可能だろう。
「今日、久しぶりにすみれのことを見た気がする」
ここ最近の少女のようなすみれもすみれの一部だろうけど、すみれが自分で思う自分らしさは出会った頃だと私は考えている。
あの時も虚勢を張っていたのは間違いないが、それでもすみれの高飛車(悪い意味で言ってるわけじゃないわ)なところや自信にあふれた態度などはあれが素だろう。
初心でお子様なすみれは可愛いし、我ながら性格の悪いことにからかうのも楽しくはあったが、どちらのすみれが好みかというと今日のようにいじられたとしても、遠慮なく言葉をいい合える関係の方が私は好きだ。
思えば、早瀬といい私はそういう関係を居心地よく感じるみたいだ。
もっとも恋愛関係としては当たり前かもしれないが。
「…………」
心の中にはすみれが求めている気持ちが存在はしている。
わだかまりを作っているのはきっと私のほうで。
森すみれという個人だけを考えればきっと……
「…………」
ふと、髪に触れる。
手触りよく指で梳く感触が心地いい。
頬に触れる。
すべすべで弾力のある瑞々しい肌は魅力的だ。
指先を唇へと向かわせ……
「ふぅ」
ため息とともに指を離す。
今はまだそこまですべきじゃない。
「……あと二日か」
旅行自体はなんと4泊5日だけど、モラトリアムの終わりは明後日の夜だ。
まだ天秤はどちらにも揺れている。
同時にどちらに比重がかかっているかも自覚しながら今はまだ自分では気づかないふりをして二日目を終えていた。
◆
三日目の朝は、思わぬ光景から始まった。
私は比較的寝起きは良いほうで昨日もすみれよりも先に目を覚まして寝顔を眺めていたものだが、今日は目を覚ました時には隣にすみれの姿はなく。
まだ布団にくるまったままの私は昨夜私は一人でお茶を飲んでいたテーブルに視線を送るとそこにすみれがいて
(電話?)
スマホを手に持ち言葉を発しているのだからまぁ、そう言って相違ないでしょう。
いまいち確信が持てなかったのは日本語で話をしていないからだ。
(帰国子女だとは言ってたけど……)
ここまでぺらぺらに話せるとはね。意味もなくこんな所でも差を感じてしまうわ。
(誰と話してるのかしら)
すみれがこれまで私と私の知り合い以外と話しているのは見たことがない。
友人はいないということだし、家族か仕事関係だろうか。
私は英語なんて受験のためにしかやってこなくて、すみれが何を話しているかはわからない。
しかし言葉がわからなければすべてがわからないかというとそういうわけではなくて、表情や語気などに感情は表れていて。
そのにじみ出た感情は怒っているようでもあれば、悲しんでいるようでもあって。要は負の感情で乱れている。
私に向けるのとは違う意味での乱れ方。
声はかけるべきでないのは当たり前だが、なぜか動くこともしない方がいいような気がしてベッドの中ですみれの電話が終わるのを待つ。
(……いつから話してるのかしら)
私が気づいてからもゆうに10分は話をしている。今日日、電話で話す時間としては長い部類だろう。
すみれは相変わらず愉快ではなさそうで、その印象は変わることないまま通話を終えた。
最後は半ば投げやりなようにも見えて、
「おはよう」
「……おはよう」
「電話、誰と話してたの?」
自分でも意外なことにあっさりとそれに踏み込み
「文葉には関係ない」
ばっさりと拒絶される。
(挑発をするのなら)
恋人なのに関係ない?
って聞くし、いつもの私ならそうしていた。
「そう」
今も電話に引きずられてか表情は険しく、先ほどの声も硬質だったことを考えると軽率に茶化すべきではないだろう。
(違う…恋人、なら)
友人なら距離を保つことはおかしくはない。だが私はすみれの恋人なんだ。
「恋人なのに、関係ない?」
挑発の意味がなかったわけではない。でも、本心でもあって。
だが、
「っ……」
すみれは不快気に顔をゆがめて、
「……文葉には関係ないわ。都合よく恋人面しないで」
それはこれまで何度も言われてきたこと。違うのはこれまでは冗談ですませることが出来る画面だったのに対して、今は迂闊にも本心での言葉を引き出してしまっている。
「悪かったわ。でも、気になるのは本当よ」
「だから、関係ないっていってるじゃない」
心配をしているのは本当で、そのくらいをわかってくれてもいいと思うのは私の傲慢?
いや、それ以前に今は適切な状態ではなかった。
すみれは冷静ではないのは少し話せばわかったはずなのに、私は食い下がろうとしてしまって。
「そんな言い方はなくない? 私はあんたに付き合ってここに来てるのよ?」
あぁ思えばこの言い方こそなかった。すみれに半ば無理やり連れてこられたとはいえ、私は『すみれが好き』だから来たはずで、私の意志であったのに。
「っ……なら、帰りなさいよ。私のこと、その程度にしか思ってないなら出ていって」
どこですみれの逆鱗に触れてしまったのかはわからない。
この時のすみれは余裕がなく、私もまた初めて見るすみれの姿にうろたえてしまった。
じゃあ出ていく。
と、売り言葉に買い言葉にならなかったのは、すみれがいつも以上に弱弱しく見えてしまったから。
とはいえ私も昂った心ですみれと冷静に話せる自信はなく、
「……今日は別行動したほうがよさそうね」
どうにかそれだけを告げていた。
だが、一緒にいるべきだったのかもしれない。
恋人なら、すみれが苦しんでいる今こそ寄り添うべきだった。たとえ疎ましがれたとしても。
それを私は後に後悔することになる。