朝、身支度を整えた私は本当に一人で出ていってしまった。
とはいえ、この辺に明るいわけではなく半ば勢いで出てきてしまったこともあいまって、するべき選択はそれほどない。
私の選択は結局はすみれの教わった知識で、今日二人で来る予定だった湖へと足を向けていた。
「…………何もかも悪いのは私なのよね」
夏の日差しの下、目の前に広がる広大な湖を眺めてつぶやく。
木々に囲まれた湖は美しく、涼し気。
遊覧船も通っており、すみれと一緒だったら今頃乗っていたはずだなと思いながら水面を臨むベンチですみれを思う。
すみれの言う通り都合よく彼女面するだけで本気では踏み込んでいかず、今回に限ってあんな風にすれば怒って当然だ。
「すみれの事情、ね」
私とは住む世界が違うのだ。私の及びつかないことはあるのだろうし、私が一生感じることのないしがらみもあるのかもしれない。
私に話しても解決することも力になってあげることもできないかもしれない。
「…………」
うじうじと悩むのは私らしくはないかしら。
今私は一人で、しかも退屈。
隣にすみれがいたらこんな気持ちにはなっていないはず。
朝は起き抜けで頭が働いていなかったというのもあるだろうけど、一人になって少しは頭が冷えたということかしら。
「…暑いけど」
なんて独り言言ってる場合じゃなくて、私がしなきゃいけないのはすみれもこの暑さを味わってもらうことね。
はじめての喧嘩? をしてからたった数時間で冷静に戻れた私は、とりあえず電話をかけ
「………ったく。出なさいよ」
せめてお昼を一緒に食べるくらいはしたいと思っていたというのにあいつは。
「仕方ない」
メッセージは送っておくけど、ちゃんと見てくれない可能性も十分に考えられる。
すみれが追いかけてくれる可能性にかけて今日の予定を一人で回るのもありだが、そんなことするくらいなら連絡をよこすはずで、すみれの機嫌が直らないという悪い方向での備えをすべきだろう。
となれば確実に戻ってくる場所で待つべきか。
そう決めると私はまっすぐにホテルへと戻り、その部屋の中で。
「すみれ……?」
意外なものを目にしていた。
すみれはナイトウェアから着替えてこそいるものの、朝電話をしていたテーブルにいて
「朝からずっと飲んでたの?」
テーブルには多種多様なアルコールが置かれていた。
「……私の勝手でしょ」
赤ら顔でぶっきらぼうに答えて、グラスに入っていた液体を喉に通す。
(……こんな短絡的なことをするんだ。すみれは)
電話のせいか私と喧嘩をしたからか。
アルコールに逃げるなんていう真似をすみれがするイメージはなく、意外な心地を持って近づいていく。
「勝手だとしても、褒められはしないわね」
「……あんたが出ていくからでしょ」
「そういわれると立つ瀬はないけど、戻ってきたのだから」
だから、話せというために来たが、
「……………」
まともな話にはならないわよね。
瞳は潤み、赤みの差した頬は劣情すら抱かせるほど蠱惑的と言っていいが今私が望む姿ではない。
「……んっ」
私などお構いなしに酒をあおろうとするすみれ。
「とりあえずやめなさい」
グラスを取り上げ、ひとまずこれ以上の悪化は防ぐことにする。
「返しなさいよ」
「だめ、あんたそんな強くないでしょ」
「…………」
憮然とした空気で私をにらむが、瞳に力は入っていない。とろんとして、むしろ眠そうだ。
「……ん」
思考がまともに働いてないのか、口論を続けはせずに立ち上がり冷蔵庫のほうへと歩いていく。
新しいお酒を取りに行くのかグラスをとるのかは知らないけど、その歩みはおぼつかず酔いが回っていることは明らかだ。
(とりあえず酔いを醒ましてもらうことの方が先決か)
「すみれ」
追いかけるように立ち上がり、すみれの体に触れると
「なに、……っよ?」
文句を言われる前に、腰と肩に腕を持っていてそれぞれに力を込めて態勢を崩しベッドへとなるべく優しく横たわらせた。
「なにするのよ」
一応、押し倒しているように見えなくもない構図だが酔っぱらい相手にときめきなんてなくあっさりと立ち上がる。
「横になってなさい。あと水飲んだ方がいいわね」
冷蔵庫に入ってたはずだと、一度ベッドを離れる私はすみれがどんな目で私を見ていたのかには気づかずに冷蔵庫から水のペットボトルをとって戻っていく。
はい、と言って差し出してもすみれは体を起こさない。
「文葉が飲ませて」
「飲ませてって……」
ベッドにあおむけになっている人間にペットボトルを飲ませるのは容易ではない。哺乳瓶でもあれば別だが、生憎とそういう趣味はない。
口移しでもしろっていうの?
そう言いかけたが、経緯を考えれば恋人を利用したような冗談をそぐわなく。ベッドへとあがると背中を支えながらすみれの体を起こさせた。
「ほら、自分で飲みなさい」
ここまでお膳立てをすると今度は水を受け取り、勢いよく喉を通していく。
細い喉が水を嚥下するたびに鳴るのは少し色っぽいと思ってしまう。
同時に
(そういえば喉が渇いているか)
ホテルに戻ると決めてからすみれと話すことばかりを考えて水分も取っていない。
せっかくだし自分の分もとってこようとベッドから降りようと……
「どこ行くのよ」
わずかに離れるそぶりを見せただけで不満げに呼び止める。
それどころか腕をつかんできて、私を逃がさないようにしてきた。
「自分の分の水をとってくるだけよ。どこにもいかないから安心なさいな」
まさかまた私が出ていくとでも思ってる? それともせっかくベッドに来たのにとでも?
「水なら私のをあげる」
あんたは自分で飲みなさいと手を振りほどこうとして、
(?)
首を傾げた。
あげると言っておきながら自分で飲んでいる。
まぁ、酔っぱらいのすることだと今度こそ手を離そうとして
「っ……!!!」
目を見開いていた。
大きく開いた眼が捉えるのは長いまつげと潤んだ瞳。
鼻腔をつくのはすみれの嗅ぎなれた香りとアルコール。
いや、それはいい。
何よりも衝撃なのは
「っ、ん。ぁ……ぷ」
重なるすみれの唇と、そこから零れ落ちる液体。
(うそ、でしょ……?)
何をされたのかは明白だった。
口移し、未遂をされたのだ。
私に受け入れる準備がなく反射的に閉じた唇からは容赦なく水が滴り服とベッドを濡らしたがそんなことに気を回せる余裕もないほどに頭は大混乱で。
「ちゃんと、飲みなさいよ」
濡れた唇から発せられるその声がなぜか甘えるように聞こえてしまう。
(キスを、されたのよね)
疑う余地はない。
しかし現実感はなく、唇の感触も水に濡らされたことに塗りつぶされてあやふやだ。
だがしたのだ。
三度目の、そして唇では初めてのキス。
(っ、嘘、でしょ)
こんなあっさり……?
今のすみれは酩酊していてこれがすみれの中でキスに入るのかはわからない。
まともな判断でしたわけじゃないのだから。
そのまともじゃない中で、再び水を口に含んでいて………再びこちらへと迫る。
何を考えているのか。何も考えていないのかもしれない。
それともアルコールによりはぎとられた理性の裏から本能がそうさせているの……?
わずか数秒の間に頭は思考をやめず、さりとて意味のある答えは出せないまま。
「んっ……」
四度目のキスをしていた。
「んっ……ん、ぷ……く、ん……っ」
今度は心の準備をしていて、半開きにした唇に水が流し込まれる。
(…ぬるい)
キスにではなくすみれの中で暖かくなった水にそんな印象を抱き
「っ……んん、ぷぁ!?」
身体が浮遊感に包まれたかと思うと背中に柔らかな衝撃を受けた。
勢いで唇は離れ、一緒に倒れこんだすみれの顔が私の胸へと落ちる。
「んっ……ぁ……ふ、あ。ぁ」
体を起こすことはなく、顔だけを上げて胸の間から私を覗きこむ。
瞳は情熱的に潤み、朱に染まる頬は熱に浮かされたように艶めき、
「……文葉」
濡れた唇から紡がれる私の名前に
「っ……」
胸の奥を掴まれたような気がした。
(何……?)
その理由を私は理解できていない。ただ、ひどく焦燥感を掻き立てられたようなそんな気がした。
「んっ………」
すみれは考える時間をくれずベッドへと手をつき、私との距離を詰めてくる。
水を含んでいないすみれが迫るその理由をすでに察しているはずなのに。
すみれが正常ではないことをわかっているはずなのに。
「……好きよ」
甘く囁かれる愛の言葉に縋るような響きを感じてしまって。
「…………」
私は強張らせた身体から力を抜いた。
すみれを受け入れるために。
「ん、っ……んぷぁ」
それは強引なキスだった。
舌を奥へと突き入れ、私の都合など構わずに前後させ無理に絡めようとする。
いささか苦しくもあり、恋人とするものとしてはロマンスがないキス
すみれには経験がないのだから、うまくやれなくて当然ではある。
そう思う一方で、
(一生懸命、ね)
これはあくまで印象の話。もうどのくらい前なのかすらわからない自分の時とは比較もできない。
すみれのキスは経験のない処女が本能で私をむさぼろうとしているというよりは、意志を持った上で上手くできていない、そんなように感じるのだ。
(………………)
「っ、ん、ぷ。ちゅ、…ぶ、ん」
雑な舌使いに対して私はキスとしてはすみれの好きなようにさせ、代わりに背中に腕を回して優しく抱き留めた。
「ふ、ぅ……ん。は、ぁ……ぅ、はぁ……ぁ」
時間にすれば一分となかった。
そんなわずかな……いえ、すみれにとっては人生で最も長かったかもしれない口づけを終えてもすみれは唇を離すだけで距離を離さない。
「……文葉」
「すみれ」
呼び合う名前の間で感情が行きかい混ざり合う。
(…………………)
夏の暑い日。
恋人とベッドの上。
誰が見ても美しいと表現するしかない彼女は、切れ長の瞳をとろんと潤ませ何度となく無断で私の唇を奪ったその口から
「ぁ……」
なにかを言いたげに動かそうとするもそこから意味のある音は出てこない。
酩酊しているはずのそれはどこか不安そうで、さながら迷子の子猫の様に思えてしまい……抱きとめてあげたくなった。
(散々悩んだって言うのに……)
瞬間に脳裏にすみれとのこれまでが駆け抜け、『こんな形』はすみれにも私にも想定外のはずだなと、悔しさとも諦観ともとれるような感覚を持ちながら。
「すみれ」
もう一度名前を呼ぶ。
(綺麗な顔)
出会ったときに感じ、これまでも何度も何度も思ってきたことを思い返し、この綺麗な顔を私の手でゆがませるのかという背徳感とその裏に確かに存在する高揚感を持って
「……んっ」
すみれとつながっていった。