結婚する。
確かに恋人の口から出てきたのはそんな言葉で。
「意味が、分からないんだけど」
頭が真っ白になるというのはこういうことを言うのだろうか。
現実感なく、しかしその場に崩れ落ちてしまいそうなほどに心は揺れていて。
「だから、そのままの意味よ。結婚するからもう文葉とはいられないっていったの」
無機質に響く『恋人』からの二度目のそれに
「それがわけわからないって言ってんのよ!」
私はすみれの前で初めて声を荒げていた。
(なん……なのよ!)
頭が真っ白で目の前は真っ赤だ。
自分でも驚くほどに怒りがこみあげている。
「あんたは私の……っ」
言ってやりたいことはあるのに、その先には何も続かない。
胸の中で様々な感情が渦巻き、言語化できず唇を震わせ臍を?む。
「私の、何? 恋人だとでもいうの?」
「っ!」
すみれの声が、私と違う冷徹な態度が今は癇に障り冷静さを奪う。
「もともと文葉とは自由時間での『暇つぶし』だったのよ。最初のころにいったでしょ。退屈だったからって」
少しでも落ち着けていれば今のすみれが私の知るすみれではないと、わかったはずなのに。
「何よ、それ」
この時の私はただただ翻弄されていて、乾いた声を出すしかできない。
「文葉と出会ったときには結婚するのは決まってたってこと。まぁ、確かに予定よりは早まったけど」
すみれの言葉には虚実が混じっているはずだ。
たった数か月の「交際」とはいえ、すみれを知っている。
はず、なのだから。
「だから、今日で「遊び」はおしまい。今までのことは感謝するわ」
「そんなので納得しろっての?」
「納得してもらう必要はないわよ。なんなら手切れ金でも払う?」
(あぁ……こいつはっ…!)
今のは『冷静』になれたからこその心でつけた悪態で。
胸の中には乾いた風が吹く。むなしさという言葉が多分一番ふさわしくて、私は
「っ……!」
すみれへと手を振りかざして。
多分、その瞬間には本気でたたくつもりだった。
でも、
一瞬びくついたすみれと、私が手を止めた次の瞬間には覚悟ができているというような顔をするのが気に喰わなくて。
いや、何よりこんなきれいな顔を傷つけるなんてできるわけもなく、振り下ろした手を力なく下ろした。
それがせめてもの抵抗だったのかもしれない。
「……言いたいことはそれだけ?」
この場でこれ以上何をするべきかわからなくて、そんな問いをする自分が滑稽だった。
せめて必要以上にすみれに会えることに浮かれたりしてなければまた違った対応ができていたかもしれないが、そんな仮定はもう無意味で。
「……それだけよ」
終始感情を乱すことのないすみれは抑揚なく言い放つ。
「……………」
今すみれの仮面を外させるほどの余裕は私にはなくて
「……そう。なら……もう行って」
今すみれが言われたくなくて言われたいだろう言葉を告げていた。
「ふみ……」
と言ったのは気のせいだったかそうではなかったのか、少なくても私の耳にはっきりと届いたのは、
「……そうするわ」
別れを肯定する言葉で、すみれはそのまま踵を返した。
その背中が寂しそうに見えるのは……たぶん私の心がそう見せていて、そのまますみれの背中が見えなくなってもその場で唇をかみしめていた。
◆
その後のことはあまり覚えてはいない。
覚えていない、というよりも思考を止めて仕事を務めた。
いつもよりも一生懸命に。
考える余裕なんてあったら、何もできなくなってしまいそうだったから。
怒り、悲しみ、無力感、喪失感、後悔、憎しみ、懺悔。
いくらでも湧いてくる負の感情に押しつぶされてしまいそう。
無視し続けることはできなくてどこかでは向き合わないといけないのもわかっている。すみれと相対した時に答えが、選択が正しいのか整理もしたい。
だが、一人になってすみれのことを思ったらとても平静ではいられなくなるのも間違いなくて。
私は。
「あのさー、文葉」
目の前で早瀬が呆れ顔で呼びかけてくる」
「……………」
私はそれを無視して、酒をあおり思考の森へと迷い込む。
「はぁ……ったく」
不誠実な態度の私に早瀬は怒りを示すこともなく、目の前の料理をたべる。
「……………」
私がすみれのことを考えるのに使った手段は、人として褒められたものではない。
一人になることを避けるために早瀬を店につき合わせた。
唐突の誘いにも早瀬はひとまずは深く尋ねることなく、あおいちゃんのお店へと向かうとわざわざ奥まった場所を指定して気を使って見せた。
早瀬としては相談してもらえるという目論見もあったのだろうが、私は何も語ることなくお酒に少しずつ口をつけながらすみれを思うのみ。
(……馬鹿みたいね)
この一件に対する自分への結論はそこに結び付く。
一度寝たからと恋人になったと浮かれ、この一週間大したこともせずに今日を招いた。
すみれのいうことを全て鵜呑みにするのならそれこそ滑稽だがそこまで単純じゃないだろう。
「……ふ」
自嘲し、再びグラスに口をつける。
「…………」
早瀬は何も言ってはこずにそのまま思考の中をさまよえる。
浮かれていた自分が情けなく、憎い。
旅行を終えての一週間、会えばどうにかなると思っていた。あいつが抱えているものを一緒に背負ってあげられるのだが自惚れていた。
恋は盲目、ではないがそんな近視眼的にしか考えられずに都合のいいことが起きるのだと思い込んでいた。
(そんな簡単なもののはずはないのに)
もはや想像しかできないが、私がいたくらいで簡単にどうにかなるような問題ならすみれはあんなことにはなっていないだろう。
もっというのなら、すみれは問題を抱えていたからこそ「退屈」で私と出会ったんだ。
(もっとすみれに向き合ってれば……)
なんていう悔恨は無意味なものだ。
出会った当時のすみれは変な奴くらいの認識しかできなかったのだから。あの時の私に、すみれにさほど興味のなかった時の私にすみれの「問題」を意識しろなんていうことは無理な話なのだから。
(……なのに、考えてる、か)
どうしようもないことをどうにかしたいと考えている。
未練の強さを物語るそれに
「は、…はは」
再び自分を嗤う。
(無駄、なのに)
もうあいつは決めたのだろうから。
私に相談することもなく。
(……っ)
思考がどんどんと暗い方向へと変わっていき涙がこぼれそうになる。
泣いてもいいのだろうが、ただの意地だろうと泣いてしまったら何かが崩れてしまいそうで。
「……んっ」
涙を推しとどめるかのようにグラスを飲み越した。
(あぁ……らしくない)
酒に溺れて逃げるなど無意味だと思っている。そもそも考え事をしようとしているのにわざわざ自分で思考を鈍らせるようなことをするなど悪手でしかない。
それでも止められないのは、他にどうしようもないと思っているからか。
「文葉さー、話してくれないのはともかく飲みすぎじゃない?」
「……っ」
早瀬としては事情を話そうとしない私にかけられる数少ない意味ある言葉なだけだったのだろう。
だが、早瀬のそれは、あのホテルでのすみれにかけた言葉と重なって。
「っ……く」
「っ、文葉!?」
止めようとしていた涙を流させた。
あの時、すみれはどんな気持ちだったのだろう。避けられない結婚を前に、何を思い一人酒をあおり、私と肌を重ねたのだろう。
そして、どんな気持ちで私の前から去ったのだろうか。
「あ、は……」
私の考えている理由はあくまで私が想像しただけで真実とはかけ離れているかもしれない。しかし、もしその一端でも捉えているのなら……
愚かな自分を許せなくなりそうだった。
「文葉さ、さすがにそろそろやめた方がいいんじゃない?」
「…………」
答えられる余裕はなく、さりとて人目をはばかって大きく泣くこともせずに数分気まずい空気が流れ、
「送ってってあげるから、帰ろ」
早瀬に言われるままに店を出ることになった。