早瀬は何もしては来なかった。

 それが危惧した理由からきたのかは私には知りようがない。

 とにかく、親友の領分を超えなかった早瀬に心からの感謝を抱いた。

 だが、早瀬が何も感じなかったかと言えばそんなはずはないのだ。

 それを思い知るのは数日後のこと。

 悲しいことに心が傷ついてても仕事には出なきゃいけないもので、その日も普段通りに出勤をしていた。

 もちろん頭の中にはすみれのことはある。しかし、どう向き合うべきかも何をすべきかも見えてはおらず、何もできないでいるのが現状。

(……せめてちゃんと話したいと思うけれど)

 それが無駄なことだとしても、あのまま終わりになるのは嫌だから。

「……ふ。余計に傷つくだけかしら」

 結果が変わらないのなら、互いに傷を確認するだけになる可能性もあると訴える自分もいる。

 さらにはこのまま会わずに終わりにした方がいいという自分すらいて、自己嫌悪にもなる。

 今は辛く悲しい。

 だが、それが一生続くかと言えばそうではないだろう。

 怒りも悲しみも永遠に抱き続けるなんてできはしない。時間が経てば大きな感情だろうとも少しずつ削れ、薄れ、小さくなっていくもの。

 ましてすみれとなんてたかだか数か月の付き合いだ。この気持ちを一生引きずるなんてないはずだ。

 って、納得できるほど聞き分けもよくないが。

(堂々巡りね)

 余計なことを考えてしまっている。

 仕事に集中していればそんなこともないっていうのに。

「ったく、早瀬のやつ」

 私は図書館のある一角で毒づく。

 仕事をしていればさっきみたいなことを考えずに済むと業務中はなるべく真面目に働いていたが、少し前早瀬に呼び出されて今の場所。……すみれとよく待ち合わせをした本棚の間。

 ここがどういう場所か早瀬だって知ってるくせにここに呼び出すとは悪趣味なことだ。

 それとも「すみれ」のことを話させる気だろうか。あの日こそ、私を抱き留めるだけで済ませたが早瀬としても完全に納得はしてないだろうし、「これから」についても早瀬は気にしてくれてるんだろう。

 どこかでは話をしたいと思っててもおかしくはない。

 が

(……早瀬のやつ)

 先ほど口にしたことを今後は心の中で呟く。

 それも苦々しく。

「文葉が話あるんじゃなかったの?」

 それはそうだろう、なんせ予想外で不愉快……とまでは言わないけれど安易にはして欲しくなかったことをしたのだから。

 通路から隣の本棚の間へとやってきた人の気配。そこから聞こえてきたのは耳なじみのある声。

「あ、それは嘘。あたしの大事な文葉のことを傷つけたおねーさんとあたしが話したかったから来てもらっただけ」

 今の二言で何となくの状況は飲み込む。

 仔細は不明だが早瀬がすみれを呼び出したのだろう。

 「私の為」に。

 私への気持ちも恩もある早瀬としてはその行動はわからないでもないが

「っていうか、文葉が話したいことがあるって言ったらのこのこ来ちゃうんだ」

(…………)

 私の疑問だったことをちょうど口にしてくれるやつだ。

「文葉のこと、遊んで捨てたくせに」

 ……こっちは言わなくてもいい。

「っ……」

 私の知るすみれならわかりやすく悔しそうに顔を歪めるはずだが。

「あはは、おねーさん。文葉の言った通りわかりやすい」

 どうやらこの前の「白姫文葉用」のすみれではなく素の状態らしい。

「……文葉がいないなら帰るわ」

「えー、少しは話させてくれてもいいと思うけどなぁ。文葉が傷ついてるのはほんとだし。何よりあたしの文葉を傷つけて黙ったままじゃあたしの気が済まないし」

「……その言い方やめて」

(あからさまな挑発でしょうに)

 私の時にはそれこそ何回もシミュレートをし、メッキを張っていたんだろう。

 それをあの場で見抜き冷静になれというのは無理な話だったが。

「その言い方って? あたしの文葉、ってこ……あれ」

 この後、早瀬がどんな展開を考えていたのかは知らないが、さっさと出てやるべきだ。

 すみれが早瀬に勝てるとも思えないし。

「文葉〜、ちょっと出てくるの早いんだけど〜」

 二人のいる本棚の間に来ると、私の姿を確認した早瀬に邪険にされるがそれを無視しすみれを視界に捉える。

「言っておくけど、早瀬が勝手にやったことよ。私ならこんな回りくどいことはしない。すみれならわかるわよね?」

「……知らないわよ。文葉のことなんて」

 不意を打たれてはこの前のようにはいかないらしい。

 それを確認したのち、早瀬へと視線を送り、どっか行けと伝える。

「えーと、あとは若いお二人で……」

 下らない捨て台詞には怒りを感じないでもないけれど、今は目の前のことだ。

(心の準備なんてできてない)

 それが正直な気持ち。

 話したいという感情はあれど、その気持ちがどこに向かうかなんて自分でもわからない。

 問い詰めて、本音を聞きだしたところでそれが何になるのか。

「……………」

 だが、こうなってしまった以上何も言わないわけにはいかない。

(まずは)

 こいつの薄っぺらい仮面を引っぺがすところから始めよう。

「……この前のが演技だったってくらいわかってるわよ」

「っ……」

「結婚は、ほんとなんでしょうけどね」

 あの日のすみれの心は大体推測できているつもりだ。

 必要以上に使っていた強い言葉、冷静すぎる態度。

 それと、私を侮辱しながら手を挙げられることには覚悟している矛盾。

 あの場ですら私はそれを理解し、すみれの身勝手な結論に私は絶望したんだ。

「自分が悪者になれば後腐れなく終われるとでも思ったの?」

 すみれの態度の理由は大方こんな所だろう。

「あんたはそんなに器用な人間じゃないわよ」

 余計なことを強気に言う必要なんてないはずだが、つい言葉が抑えられなかった。

「……仕方ない、じゃない」

 ようやく私に向けた言葉は少女のような不安を滲ませたもの。

 そこにいたのはこの前とは似ても似つかない少女だ。

「…家庭の事情、ってやつよ」

(くっだらない)

 そこの詳細は聞きたくもないが、あれだけ傍若無人に振舞っておいていざとなったら家族を理由に恋人を捨てるという。

「……そう」

 私の家族とはたぶん重さが違うのだろうからそれを切って捨てろなんていう資格は……ない。

(あぁ……駄目だ)

 最初からこの話の向かう先は決まっていて、その予感に心が乱れる。

 話を進めていけば必ず「そこ」にたどりついてしまう気がしていて。それもそうなった時の自分の感情までも予測できてしまうから。

「……なんで、私に興味を持ったの」

 引き延ばすためなのか、それとも別の理由かそんなことを訪ねていた。

「あんたが私の「知らない」人間だったからよ。私には人の為、なんていう感覚は理解できないものだったもの」

 それは今なら少しだけ理解できる。

「私にはないことができる文葉が気になって、もしかしたらそれで私も自分のため以外に何かをするって気持ちが理解できるかもとか期待したのかもね」

 それは嘘ではないのだろうが、本当に嘘ではない程度の意味合いに聞こえる。

 その私の考えを証明するかのようにすみれは「でも、一番は」と続けた。

「文葉が……むかつくやつだったからよ」

「…ずいぶんな言いざまね」

「むかつくに決まってるでしょ。私は自分のためじゃない結婚をしなきゃいけないのに、あんたは自由なくせに他人を喜ばせるのはやりがいだなんていうんだから」

 それは……反論できないかもしれない。責任を感じるつもりはないが。

「そんなことができる文葉に興味を持って……一緒にいるのが楽しくて、嬉しくて…」

 好きになった。

(…『お姫様』って感じね)

 私への好意は最初は逃避も含んでいたのだろう、だがそんな理由から始まり少しずつ惹かれ好きになっていく。

 そして私はそんなことにも気づかないままで。

(聞くべきじゃなかったかもしれない)

 すみれの想いが心に重くのしかかる。

 恋人としての先を求めたすみれ。

 旅行へと誘ったときは、きっともう逃れられなくて私を求めてのことだったのだろう。

 だからこその「好きだったら来なさい」

 そして、すみれと肌を重ねたあの日。

(……すみれの気持ちなんて知らなかった)

 そんな言い訳はあの時点ではできない。知ろうとしなかったのだから。

 自分の重荷になることを恐れ、避けすみれを追い込んだ。

(……くそっ)

 自責に心がつぶれてしまいそうだ。すみれから結婚という言葉を聞いた時以来、胸に巣くう無力感が大きく広がっていく。

「……………」

(何を、言えばいいのよ)

 謝ればいい? それとも結婚するなとでも? 無責任になにを言うの? 私はすみれの悩み苦しんでいる時にも自分の都合だけを考え、追い込んだのに?

「すみれ……」

 多分今は私の方が何もできない少女のように見えるだろう。

 何を言うべきかもわからずただ名前を呼ぶことしかできなくて……

 こんな不安定な姿は今まですみれに見せられたことはない。

「………ほんとに、結婚するの?」

 その不安な中で私はいうつもりのなかったことを言っていた。

「嘘だったら、こんなことになってないでしょ」

「……いつ?」

 だから、聞いてどうするのよ!

「さぁ? ……年内くらいじゃない?」

 諦めたように淡々と告げるすみれ。

 その態度が嫌でたまらない。

 だってそれはつまり。

「……でも、決まって……決めたんでしょ」

 あえて言いなおした。

 その態度がとれるのはそういうことだ。

 こいつは私に内緒で決めた。どうしようもないことだからと理由付けはできても、頼ってもらえなかったという事実は変わりない。

「……………………そういうこと、よ」

 長い沈黙のあとすみれは諦観と安堵を混ぜたかのように笑った。

「………」

 奥歯を噛んだ音が聞こえるんじゃないかってくらい噛みしめた。

 これを聞きたくなかったからすみれと話せないと思っていたのに。

「あ、は。まぁ、でもよかったわ」

「え?」

「あんたの言う通り、私はそんなに器用じゃないわ。この前はうまくやれたとは思ってたけど、文葉に恨まれて終わるなんて嫌だって後悔もした」

 雰囲気と話の方向を変えすみれは続けていく。

「大体……本当に言いたいことだって言えないで終わっちゃうなんて絶対に嫌」

「言いたい、こと?」

「そ。……文葉へのお礼」

 言ってすみれは私へと近づくと、至近距離で顔を見つめて。

「私のために本を探してくれてありがとう。あの時文葉が私のために一生懸命になってくれたから私は文葉と繋がれた。文葉と一緒にいられてすごく、楽しかった。初めてのことばっかりで、文葉とすること全部が楽しく、嬉しくなっていた。だから、ありがとう」

 吹っ切れたような表情で暖かく、同時に心を突き刺すようなありがとうを告げる。

「本当に感謝してるわ。初めて好きって思えたの。人を好きになれるなんて思ってなかった私がよ」

 やめろと言いたかった。

 自分の中で区切りをつけてしまったすみれの言葉をこれ以上……聞いていたら、私はっ

「恋ができた……本当にありがとう」

 これほど残酷な感謝の言葉があるだろうか。

「大好きよ、文葉」

「すみれっ……!」

 奪いたい。この子供のくせに大人の判断をしてしまっている私の好きな人を奪ってしまいたい。

 だけど、でも……

 その一時の感情ですみれの決意は覆るのだろうか。いや、覆していいものかもわからない。

(結局、同じだ……)

 すみれは一人で決めて、私は無力なままで……

 いや……無力だとしても。

「すみれ」

 もう一度名を呼び、抱き寄せようとした私に先んじて

「……ん」

 唇を奪われていた。

 いつも唐突なすみれのキス。

 反射的に抱こうとした腕を中途半端にとどめたまますみれは一歩下がり私の腕から逃れて。

「……ありがとう」

 顔を見せずにもう一度それをつぶやいて

「すみれっ!」

 名前を呼ぶだけで何もできなかった私の前から去っていった。

6−2/6−4  

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