結局すみれとは連絡を取らないままにしばらくして。
「さて、と」
仕事を終え、家に帰った私は一通りのことを済ませると机の前に座り、パソコンを立ち上げる。
これまでパソコンをそれほど活用してきたわけではなく、つけない日も珍しくはなかったがここ最近は毎日電源を入れ、それどころか家にいる時のほとんどをパソコンの前で過ごしている。
「今日はどれくらい進められるかしらね」
呟き、手帳を眺める。すみれのことを書いた手帳を。
当時よりもメモ書きや捕捉が多くなったそれを時折確認しながらパソコンに文字を打ち込んでいく。
何をしているか、と問われれば回答はいくつかある。
その中で一つに絞るとしたら、ラブレターを書いているということになるだろうか。
普通のラブレターではないが。
他の回答をするのなら、本を書いているともいえる。
まぁ、つまりはそういうことをしてる。
あいつと私のことを綴った小説を書いている。
手帳はその参考ということだ。
冷静に見るのならこれは異常な行動だろう。私を捨て、結婚するという彼女にあてた本を書くなんて。
まして自分とその恋人を題材にした話など正気の沙汰じゃない。
だけど私はそれを選んだ。
すみれとお別れをしたあの日に、頭をよぎった馬鹿らしい行為。
失恋の勢いで思いついてしまったことで、一度は手紙でもいいかと思いなおしはした。
ちゃんと好きだったと伝えるための手紙。言葉だけじゃなくて形に残るものなら手紙でも役目は果たせると。
それでもやはり本にしようと思ったのは……私の性格が悪いからだ。
小説なんて高校のところに一度書こうとして挫折して以来で、まともにかきあげられたこともない。
無知で無茶で無謀な選択だが、目的のためには手紙よりもこちらの方がいい。
この無謀な行為の目的はすみれに「呪い」をかけるという自己満足。
私がこんなにもすみれが好きだという証を手紙ではなくて、もっと重く刻みたいと思ってしまった。
それは好きな人の為ではなくて自分のためなのだ。
あいつの幸せを願うような生易しいものではなくて、私の好きという重さを押し付けるためのもの。
これがすみれの今後に重荷になっても構わない。むしろ、重荷を背負わせるためのもの。
今後の人生で私に縛られて欲しいとそう本気で思っている。
言い訳をすると、好きだという気持ちを形にしたいというのも本気ではあるわ。
好きとすらまともに伝えなかったけれど、こんなにも貴女が好きだったとそれを伝えたい。
まぁ、何にせよ。
「……ここまで重い女だとは思わなかったわね」
実現するかもわからない、まして完成したとして手紙ならいざ知らずすみれが本を読むとは限らないのに。
それとも私の動機は全て自分を納得させるための理由でしかなく、本当は自分がこれから引きずらないための区切りとしての行為なのだろうか。
自分の心すらよくわからないけれど。
すみれに「呪い」をかけたいと願う気持ちは本物だと信じられるから。
「…読んだらあいつは怒りそうよね」
なんて軽口をたたきながら今日も悪戦苦闘して私とすみれの物語を紡いでいく。
◆
素人が本を書くだなんて無謀なことだ。
本は人に比べれば読んでいる方だろうが、勝手や作法などはわからない。
書いていてこれは本当に物語と呼べるのか、同じ言い回しばかりをつかってしまうなとか、必要なことは書けなく、必要じゃない描写ばかりが増えていくなとか、こんなことなら今からでも手紙にした方がいいかもしれないなとか、そもそもまともに本を読まないというすみれがいくら私からのものだとしてもこんなつたない文章を読むのかとか、不安も障害もいくらでも生まれて。
それでも私は筆を止めることなく、物語を進めていった。
…話は佳境へと近づき、結婚を告げられる場面だ。
「っ……はぁ」
すでに一か月以上も前のことだが、最初の頃の感情は覚えている。
腸が煮えくり返るようなあの不快感、すみれが「独り」で決めてしまったのだろ気づいた時の無力感、喪失感。
一人で別れを決めたことについては、すみれにはすみれの苦しみがあったと頭ではわかっていても、やっぱり許せてはいない。
「だから……あんたを後悔させてやる」
私の気持ちも確認せず、私を頼りにせず別れを決めたことを後悔しろ。
私の気持ちを知って、私の望みを知って、私がどれだけあんたに焦がれているか、求めているのかを知って後悔しろ。
そして、一生私を引きずればいい。
当てつけで復讐で、告白で。
歪んでしまった愛なのだろう。
ここからは未知の物語。手帳には記されていない物語。
すみれを後悔させるための話。
花嫁を奪うそんな都合のいい話を書く自分が何より滑稽だが、そうだとしても。
(……あんたを好きだから。私が好きだったって知っててもらいたいから)
自己満足の行為を続けていくのだ。
◆
そして、未知の物語を書き始めてわずか数日。
心のままに筆が乗ったのは、この部分こそが書きたかったからか。
一日に何時間でも集中できてしまい、ついに私は。
「……ふ、ぅ」
最後の一文を結び、背もたれに体重をかけて天井を見上げた。
「一応完成、か」
人生で初めて小説をかきあげた私の胸には確かに達成感は湧き上がって入る。
それ以上に負の感情もあるが。
「……ほんと、私は勝手なやつね」
きっと後から見返したらとても恥ずかしくて見ていられない。私こそ、何年か後にでもこの本を読んだら恥ずかしすぎて死にたくすらなるかもしれない。
それほどに稚拙で自己中心的な物語。
未練を残し意にそぐわぬ結婚をする恋人を取り戻す話。
決めたことだと拒絶する花嫁に思いの丈をぶつけ自分を選ばせるなんて、今どき二流もいいところだ。
……そうしたかったのだという身勝手で浅ましい願望。それを形にしてしまったことに未練とすみれへの想いの大きさを知る。
「……バカみたい」
自嘲がこぼれ、瞳の奥がじんわりと熱くなる。
すみれを奪いたかったのならそうすればよかった。こんな自分に都合のいい妄想を形にして何の意味があるんだか。
「妄想、だから……意味があるのかしら」
現実ではどうにもならないとしてもお話の中でなら望む結末を迎えられる。
すみれと未来を一緒に歩きたかった。
その想いを形にして残す。
今となってはその程度が私にできる数少ない抵抗。
あいつがこの本を見るたびに私のことを思い出してくれるのなら……心に残れるのならそれで……それだけでいい。
その切なさは私も同じだから。
「……このくらいは、許しなさいよ」
何の涙が自分でもわからないが一筋涙をこぼし、区切りをつける。
「と、感傷的になってばかりもいられないわよね」
そんなことになったら何もできなくなってしまいそうだ。
まだまだすみれにこれを渡すまでには段階がある。
自費出版等の手続きなどもあるが、何より
「どうやって渡すべきかしらね」
すみれの中ではあの時の「ありがとう」で別れは済んでいる。
そもそも結婚は年明けくらいと言ってもそれまでまだこの街に住んでいるかも知らない。
でも、と。
私はあの場所を頭によぎらせる。
すみれを奪う機会を逸したあの場所。私たちにとっての特別な場所を。
「……まぁ、応えなかったらそこまでってことね」
あの場所に呼び出したとして応じないのだとしたら、それで終わりだ。
どんな理由だったとしても直接会ってもくれないのだとしたら「呪い」などかからないだろう。
「さすがに結婚祝いを渡したいって誘うのは、度が過ぎるかしらね」
方向性を定め、どう挑発してやろうかと思いながら運命の日は迫っていく。