迎えたその日。

 よく逢引をしていたお昼時。

 図書館の奥まった一角。

 思えばここで過ごした時間がそれほど多いわけではない。

 二回目のキスや結婚を告げられたこと、この前の別れなど印象的なことは多いがすみれとの時間の大半はこの場所以外で過ごしてきた。

 それでも当初はすみれと会うと言えばこの場所で、その時間の印象が少しずつ薄くなったのは私がすみれと仲を深めていた証なんだろう。

 でも特別な場所だ。

 そして……恋人を失った場所でもある。

 もしあの時に行かないでと言えていたら私たちには別の未来があったのだろうか。

 それこそ、この本に書いたような望む未来が。

 ……詮無いことだ。

 こうしていることが私たちの現実なのだから。

 今気にしなきゃいけないのは目下、あいつがちゃんと来てくれるかだ。

 メッセージに返信はあえて求めなかった。

 話したいことがあるから、この日この時間に来てと伝えただけ。それもまたあまり現実的なものではない。

 勝手に指定したって先に予定があるかもしれないし、そもそもまだこの街にいるのかすら私は知らない。

 だが、会うつもりがあって予定が合わないのならこちらが返信を求めなくても伝えては来るだろう。

 会うつもりがないならこのまま待ちぼうけし、私たちの関係は終わりだ。

 ある意味その方がお互いにとっても幸せかもしれない。

 いや、むしろこれからの何十年という人生を考えればその方がおそらくいいのだろうが

「文葉」

 耳に響いた久しぶりの好きな人の声に、人生はままならないことを感じていた。

「……話、ってなによ」

(悔しいけど、ほんと綺麗なやつ)

 整った顔立ちに、切れ長の瞳。流れるような髪は繊細で美しい。

 久しぶりの相対で初めて会ったときのような衝撃を受けたが、その時とは異なり一筋縄ではいかない面倒な性格も知っている。

 すみれは私に出会えてよかったと言ってくれたが……私はこの先すみれとの出会いをどう思うのだろうか。

「ぁ……」

 声が上手く出なかった。

 ここが私とすみれの最後の場所になるかもしれない。呼び出した時にはそれを考えたはずなのにいざその時が来ると心が竦む。

(……しっかりしなさいよ私)

 別れが惜しいということは伝わってもいいが、最後になるかもしれないからこそ取り乱した姿は見せたくなかった。

「あんたに結婚祝い渡そうかと思って」

 攻撃的な言葉だ。

 虚勢を張っていなければ、感情の仮面が外れてしまいそうだから。

 それに、意趣返しでもあるわ。性格の悪いことにね。

「それ冗談なら最悪だけど、冗談じゃないならもっと最悪ね」

「冗談でもあって冗談じゃないわね。じゃあ言い方を変えるわ。最初に会った時の約束でも果たそうかと思って」

「約束?」

「あんたが気に入る本を紹介するっていったでしょ」

 今考えても奇妙な話だ。でもそれがここにつながっている。

 もっとも、あまりに皮肉が過ぎる展開だが。

「今更何なのよ、そんなの……」

 いらだっているのは当たり前ね。

 一か月以上も連絡はなく、すみれとしてはもう終わっているはずの元恋人から呼び出され、挙句こんなことを言われているのだから。

 これ以上怒らせる前にと私は持っていたカバンからそれを取り出して。

「はい、これ」

 私の想いの塊を差し出した。

「だから、何よこれは」

「私が書いた本」

「は?」

 ふふ、驚いている。すみれからしたらそんな姿見せるつもりなかっただろうに。

「だから私が書いたのよ。それを餞別にあげるっていってるの」

「意味が、わからないんだけど」

「読んでもらえればわかるはずだから読みなさいな」

 やれやれなんとも妙な雰囲気ね。

 まぁ、でもそれでいいわ。「ここでは」それでいい。

 私の気持ちを知るのは対面じゃない方がきっといいわ。

(だって、ここで私が告白でもしたら、もう平静を保てない)

 本当は泣きわめきたいし、やっぱりビンタの一発でもお見舞いした後、こんなにも好きだったと告白したい。

 私もすみれに会えてよかったと伝えたい。

 でも……それは選ばない。

 すみれに呪いをかけたい気持ちとは矛盾するが、今告白をしてしまったら、すみれの意思も覚悟も無視して私だけのものにしてしまいたくなるから。

(それに、本で気持ちを知った方がロマンチックでしょ)

 そんなふざけたような理由で自分をごまかし

「それじゃあ」

「え、ちょっと文葉」

 状況を呑み込めずにこの場を去ろうとする私にすみれは狼狽する。

(当然よね)

 今更呼び出されてたのにいきなり素人の本を渡されておしまいなのだから。

 それこそ私がさっき考えたような、『告白』でもされるのかと身構えていたのかもしれない。

(…告白を期待したって考えたいのは自惚れが過ぎるわよね)

 もうすみれは決めているのだ。すみれの目的がどんなだったかなんて、妄想しても意味はないから

「本、ちゃんと読んでね」

 私はそれだけを告げて、すみれの前から去っていった

 今度こそ別れになることを覚悟して。

 

 ◆

 

 不思議な心境だった。

 家に戻った私はすみれの本当の気持ちを聞いて別れた日のようにベッドへと横たわり天井を眺めていた。

「…………」

 今何を考えているのか自分でもよくわからない。

 やり切ったという感覚がないわけではないけど、実感がわかないというのが本音。

(それもそうか)

 本を渡すというのは私としては意味あることだったけど、すみれからしたらわけがわからないもので、本当に読んでくれるかも不明だ。

 何より読んだ後のすみれの反応がみれないのだから、実感を持てというのも無理な話だ。

(すみれは……どう思うのかしらね)

 私の気持ちを知って、何を思ってくれるだろう。

 感動で泣いてくれるか、私の気持ちの大きさを知って私を捨てたことを後悔してくれるか、それとも直接伝えろと怒るか、今更こんなものを渡されても意味はないと切り捨てるか。

「あぁ…でも…やっぱり、怒りそうよね」

 私がしたことは本当にろくでもないことなのだから。

 あいつが不本意な結婚をしなければならないと知っていて、あいつがまだ私を好きだと知っていて、あいつのせいで「自由」になった私が不自由なあいつの心を縛るようなものを渡したのだから。

 人としては褒められたことをしてはいない。

 機微のことで正解はないとしても、私のしたことは私が満足するためが第一でやはりいいこととは言えないだろう。

 でも

「……思い知りなさいよ」

 人の道を違えたとしてもあんたの心に残っておきたかった私の気持ちを。

 本当に性格の悪いことだと自分を滑稽に思いながら私はいつまでもすみれのことを考えるのだった。

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