「……………」
すみれのことを頭から離せないまま気づけば西日が差し込んでくる時間で、数時間も経ってのかと呆然と思った。
心が抜け落ちたような感覚はいまだに変わりない。大げさに言えば今は生きる目的を失ったような状態だ。
すみれと決定的な別れをしてから今日までこの日のために励んできた。この先のことなんて何も考えていない。
すみれに想いを伝えた後のこと、なんて何も……
「…考えられないわよ」
そんな落ち込むしかない私の耳にスマホの振動音が聞こえてきた。
「……っさい」
誰からだろうととても話すつもりはなく面倒だと着信を切ろうとして
「っ」
ディスプレイに表示されている名前に心を震わせた。
「すみれ……っ」
その名を呼び、迷ったのちに通話ボタンを押す。
「……はい」
「開けて」
「は?」
「今、あんたの部屋の前にいるわ」
「ちょ、え?」
何が何だかわからないまま、身体を起こしてドアの前を確認できるモニターをつけると本当にすみれの姿があって。
「な、んでここにいるのよ。大体どうやって知ったのよ」
「あんたのお友達に聞いたのよ。いいから開けなさいよ」
何が起きているのか理解はできていない。しかし、実際にすぐそこにいるすみれを無視なんてできなくて慌ててドアを開けると。
「文葉!」
ほとんど視界に捉える間もなく感情のつまった声で名前を呼ばれて
「すみ、れっ!?」
力いっぱいに抱き着かれた。
久しぶりに意識をするすみれの香り……セックスした時以来のぬくもり。
「キス……」
「え?」
まだ私は何が起きたのかわかってはいなくて、ただただ久方ぶりのすみれを感じるしかできていなかったが
「キス、しなさい」
甘えたような、拗ねたようなその声にすみれの気持ちを悟り。
「……えぇ」
すみれの体を抱き返すと顔を見ることもなく唇を重ねた。
行為の流れでなければこれが私からの初めてのキス。
「っ……ん、ふ…ぁ」
ただ相手を感じ合う口づけはそれほど長くはなく、一度距離をとるとようやくすみれの顔が見れて。
「………文葉」
情愛を感じさせる声と私を求めるその表情に。
「んっ……」
再びすみれと一つになった。
「ん、ちゅ……ぷ。くちゅ……ちゅ、チュぱ、ん」
迷いなく舌を突き入れ、貪るようにすみれを奪う。
腰と背中を抱き、これ以上ないほどに密着する。
「ふ、ぁ……ん、ぷぁ……ん、んっんっ」
すみれのすべてを味わうかのように舌を絡め、すみれを舐る。
「っふ、はっ……んっ! くちゅ、じゅ、ぷ……ぴちゅ、……んっぁ…」
一度離れても、再び求めあい深くつながり合う。
(すみれ……すみれ……っ)
この手の中にすみれのいる喜びに目がしらが熱くしながら、熱烈に口づけを交わし、
「……はぁ……ふ、ぁ……」
激しく息を整えるすみれは
「バカ文葉……」
泣き笑い顔で嫌味の込められた愛の言葉を伝えてくれていた。
◆
いつまでも玄関口で愛を語るわけにもいかず初めてすみれを部屋へと招き入れる。
普通なら好きな人を初めて部屋に招き入れるということを意識するところだろうが、私たちにはそんな段階になく、もてなしをすることもなく寝室へ向かって。
「で、どういうことよこれは」
勝手にベッドへと腰かけ、私の本を突き付けてくるすみれ。
少し頭が冷えているのか、その表情にはすみれらしい勝気が見て取れる。
「……………」
私も冷静になってしまってはいるが、それ故にこの場でどう振舞うべきかが見えていない。
わからないからこそ、心に素直になるべきか。
「読んだのならわかるでしょ。それが私の気持ちよ」
言いながらすみれとわずかに距離を開けて私も腰を下ろす。
そう、読んだなら伝わっているはず。
これは私の都合いい物語、私が求めた物語。
「これが文葉の気持ちだとして、なんでこんなやり方なのよ。しかも……今更」
「…………」
面と向かって言えることではないけれど、言い訳なんてもうしない。
「……あんたへの当てつけよ。復讐、っていってもいいかもしれないわね」
「…………」
何も返さないが視線だけは鋭く私を捉えている。
「あんたは私に何も話さないで結婚するって決めた。私に話してもしょうがなかったとしても、私は……むなしかった」
あの時、力になろうと息巻いていた。自分がすみれを支えてあげられると勝手に思い込んでいただけだとしても。
「あの無力感はあんたにはわからないわよ。好きな人に頼ってもらえない寂しさは」
「……勝手な言い分ね」
「知ってるわよ。私はあんたのこと今だって全然わからない……これまで踏み込まなかったのも私だってわかってる。でも、それでも……あんたに結婚を告げられた時の私は、抱えてるものを一緒に背負ってあげたいって思ってたのよ」
「だから、『当てつけ』ってわけ」
「そうよ。私は、私の隣にいないすみれの幸せなんて願えない。……だから……」
呪いをかけたという趣旨の伝えようとして……と軽く首をふる。
「……ごめん、今のは嘘。嘘じゃないけど……嘘」
当てつけで、復讐で、呪いだけど。
「すみれに、私がすみれを好きだったっていう証を持っててほしかったのよ。一緒になれないのならせめてすみれの心に残りたかった」
自分の気持ちも把握しきれてはいないけどきっとこれが一番の気持ち。言葉で好きと伝えるだけじゃなくて、この本を見た時に白姫文葉という存在が森すみれを愛していたと思いだしてもらいたくて形にしたんだ。
「すみれ、貴女をあ……」
「私も、文葉に言わせてもらうわ」
まだ続きのあった私の告解に割り込むように口を挟む。
「文葉がそうやって怒る気持ち、わからないわけじゃないわ。けど…そんなのは自業自得よ」
「…知ってる」
その通りだ。すみれはずっと私を求めていた。恋人としての先を求めたのは単にそうなりたかったからだけじゃなくて、どうしようもない現実から救い出して欲しいという声にならない心の叫びだったのかもしれない。
「何が当てつけよ。悪いのは文葉じゃない。好きって言ってくれもしない、キスもしない。手も出さない。私は文葉の気持ちなんて知らなかった、わからなかったっ」
最初は淡々としていたすみれだが、徐々に声が震えだし心の乱れが表情にも現れる。
「文葉こそわかるの? 私がどんな気持ちで文葉と一緒にいたか。文葉と会う日はいつもドキドキしてた。今日こそは何かあるかもしれないって期待してた。でも、あんたは私を子ども扱いばっかりで。私だけが恋をしてるんじゃないかって怖くなった時だってあるのよ」
罪を突き付けられている。それでも耳を塞ぎたいなんて思いすらしない。
「勝手に決めた? 悩まなかったって思うの? 言いたかったわよっ。文葉に……助けて、って……言いたかった」
声に宿る痛々しいほどの激情が私に突き刺さる。
「でも……言えなかった。…文葉の気持ちがわからなかったから。迷惑にしかならないんじゃないかって、拒絶されるんじゃないかって……怖かった」
瞳を熱く濡らし、心を吐露するすみれの姿に胸が痛み、それ以上の気持ちが湧き上がる。
「だから……諦めようとしたんじゃない。あんたに嫌われて終わりにしようって思って……上手くはいかなかったけど……でも、本当に終わりになったって。最近はようやく自分に言い聞かせられていた……」
上手く言葉を紡げないのか唇は戦慄き、それでも私を強く見つめて。
「なのに、何が好きだったよ……何が証よ…っ……何が私の心に残りたかったよっ。今更ふざけないでよっ!」
言葉とは裏腹に涙に濡れる瞳には縋るような弱さが見て取れる気がして……
「私が欲しかったのはっ…!?」
最後まで言い終える前にすみれを強く抱き、
「……好きよ、すみれ」
遅すぎる愛の告白をした。
「馬鹿っ! ……馬鹿文葉。ほんとに……馬鹿」
(…語彙力のない子ね)
「もっと早く言いなさいよ。どれだけ待ってたって思うの? 今更そんなこと言って許してもらえると思ってるの? 勝手すぎるのよ文葉は」
「ごめん、好きよすみれ。大好き」
許してもらいたいからじゃなくて、これが私の素直な気持ち。
何度でも伝えるわ。
「……馬鹿」
心が通じたのかすみれ抱擁を返し、爪を立てながら私の背中を力いっぱいにつかむ。
そしてしばらくの沈黙の後、
「…………………文葉、もっと言いなさいよ。文葉の気持ち、もっと……聞かせて」
「好きよすみれ。初めて会ったときからなんて綺麗なんだろうって思ってた。少しずつ貴女を知って、可愛いって感じるようになって、一緒にいることが楽しくなった。貴女を失って、初めてこんなにも好きだったって気づいて……誰にも渡したくないって思った。ううん、誰にも渡さない。すみれは私のものだから。私は、すみれを愛しているから」
それはすみれに渡した本の告白の場面。花嫁を奪う時の愛の告白。
「文葉っ……」
求めた言葉にすみれは喜びを込め切なげに私を呼び、私の腕から逃れた。
正面で相対し、一心に私を見つめるすみれ。
そこに込められているのは思いを通じ合わせた喜びと、大きな愛と……いや、言葉にするのは無粋で。
「…私を奪って」
その言葉と共に私はすみれと交わっていった。