どれほどの間、そうしていただろうか。
ベッドに背中を預け慙愧の念に駆られていた麻美はようやく顔を上げた。その姿は死人のように生気が感じられず、見るからに病んでいた。
時計はすでに三時間以上もたっている。酔っていたわけでもないのにそんなにも我を忘れていたらしい。
してしまったことの重大さを考えればそれでも少ないだろうが。
麻美は相変わらずの自嘲をし、はっきりとしない頭で洗面所に向かうが、体は目が覚めたときから、いやそれ以上に重い。
体中に残る疲労だけではなくむしろ擦り切れてしまった心が体にまで影響を及ぼしている。
「……ひどい、顔」
洗面所で鏡を見た麻美は他人事のように呟いた。
髪はくしゃくしゃ、目元なんて本当に自分かと思うほどに赤く腫れ上がっている。まるで山姥のようだ。
いや、山姥のようなのは見た目なんかじゃなく醜悪な心のほうか。
麻美はまた自分のことを虐げ、笑う。
自分のあまりの様子に顔を洗う気さえなくした麻美は、ふらふらと台所へ辿りついた。片付けもしないほど急いでいたのか、もしかしたら動揺していて片付けるのを忘れたのか包丁が放置してあった。
刃渡り十五センチほどの変哲の包丁。
麻美は何気なくそれを見つめると……
「死のう、かしら……?」
小さく呟いた。
本気なのか自分でもわからないがそんな言葉が心の隙間からぽろっとこぼれた。
楓を失い、もう会社にだっていけない。
楓と会社。本来比べる対象にすらなりえるはずないが、仕事に追われれば少しは楓の失くした悲しみを誤魔化せるかとも思ったが、それももう不可能。
舞は麻美が昨夜のことを忘れていると思っているからこのままシラを切り続けるはできるかもしれない。だが、それは舞にレイプした犯人と一緒にいさせるようなものだ。本当に覚えていないのならともかく、何があったか理解している今では例え舞がばれたくないからと黙ったとしてもこっちの方が耐えられない。
鈍い光沢を放つ包丁を麻美は力のなく手に取る。
「楓は……泣く、わよね……」
ぼんやりとそれを眺めると意識せずに言葉が飛び出した。
結婚してしまったとはいえ、もう二度と会えなくなるわけでも、お互いのことを知り合えなくなったわけでもない。おそらくこれからも絶対に会うだろうし、遊んだりもするだろう。
楓もきっと同じように思っているはず。麻美とまた会えると。体は離れても心はつながると。
そんな中麻美の訃報、それも自殺、なんてことが伝われば楓が後追い自殺しないとも限らない。そんなのは駄目。自分の都合なんかで楓を巻き込むことなんて出来るはずがない。
……いや、どうせそうなるのなら。
麻美は刃を光の失った瞳で刃を見つめ、包丁をしっかりと握った。
「……心中でもすれば、よかったのかしらね」
そして、恐る恐る刃を手首に押し当てる。
楓はもしかしたら頷いてくれたかもしれない。一緒に、死んでくれたかもしれない。
(でも……)
きっと今はもう遅い。すでに楓は覚悟を決めてしまっているのだから。あのキスのあと、楓があの部屋を出ていったときにすべては終わってしまったのだから。
楓への恋を失っても、想いを失くしたわけではない。今でも、楓は麻美の心に深く根付いている。楓もきっと同じ。
だから麻美一人で死ぬわけにはいかない。
(……舞、ちゃんに、謝らなきゃ……)
死ねない以上は麻美もまた、生きていくしかない。本来逮捕でも仕方のないことをしてしまったのに、何事もなかったかのようにこれから一緒に働くのなどできない。
謝ったからといって許されるはずもないが、それでも詫びを入れるのが人としての最低限のけじめ。少しでも償えるのなら何でもするし、気が済むまで叩かれたっていい。
舞がいつ帰ってくるかはわからないが、明日は月曜なのだし遅くなるとは言っていたが帰ってこないということはないだろう。
それまでに少しでも心の整理をつけ、きちんと自分のしてしまったことに向き合わなければ。
麻美はそう決めると少しだけ名残を惜しみ包丁を手放した。
日が沈んでも舞はまだ帰ってこなかった。遅くなるといっていたくらいだ、まだまだ帰ってこないのかもしれない。明日になればほぼ確実に会えるだろうが、いつ二人とも時間が取れるかわからない。いや舞に許してもらえないとしても、謝罪をしなければ会社に行く資格すらない。なら多少、帰りが遅くなろうとも二人きりになれる今日中に話をしておきたい。
善……ではないが、遅いよりは早いほうがいいだろう。
麻美はしかられた子供のように朝食をとったテーブルの前で正座をしていた。体中がだるいので横になっていたいところではあるが、ベッドに寝るのは気が引けた。
そういえば、朝に舞の用意してくれたご飯を食べてから何も食べていなく空腹極まりないが不思議とそれほど気にならない。気を回す余裕がない、というほうが正しいのかもしれないが。
(……なんていえば言いのかしらね?)
色々言わなきゃいけないことは思い浮かぶが、多分舞を目の前にしてしまえば頭の中が真っ白になってしまう。今からあれこれ考えてもこういうときは本人と向き合って心に浮かぶものと言葉にするのがよかったりする。
頭ではそう思っているつもりだが、麻美の体は震えていた。してしまったことの重さに押しつぶされかかっていた。
ガチャ
(!!)
ドアが開く音がして麻美は体をビクつかせる。
「あれ? 電気ついてたからもしかしてって思ったけど、先輩まだいたんですか」
中に足を踏み入れるなり舞は麻美の前にやってきた。
「えぇ……お帰りなさい、舞ちゃん」
(まだ…か。そりゃ、私なんかにずっと居て欲しいわけないわよね)
「その、舞ちゃんにまだちゃんと言ってないし」
「お礼ですか? いいですよそんなの」
「……そうじゃないの」
麻美はどこまでも暗くためらいがちに言葉をつむぎだした。
「昨日…の、こと……」
「昨日の……思い、出したんですか」
舞もまた表情が暗くなった。だが、怒りや憎しみを持っているというよりは同情、いや哀しみともとれる感情を抱いた瞳で小さくなる麻美を見つめる。
「……えぇ、少しだけど」
麻美は自分のことだけで精一杯となり舞の視線に気づいていない。
「あやまっても、許されることじゃないのは、わかってるわ……でも」
顔を見て言わなきゃ意味がないと思うのに、とても向かい合えない。
「……ごめん、なさい」
「そんな、風にいわないで、くだ…さい」
どうにか絞りだした麻美の謝罪に舞は不可解な言葉を返した。
「先輩が…思ってるようには、気にしてませんから」
『思ってるようには』つまり気にはしているが、麻美が気にしているように、つまりまるで襲ったことそのものとは別のことを気にしている。
しかも、舞の顔は麻美と同じかそれ以上に翳っており麻美には舞の心中がどうなっているかまるでわからない。
「気を使わないで……覚悟はできてる、から」
「本当に違うんです。だから、謝らないでください」
何が悲しかったのかわからないくせに、というどす黒い感情を含んだ言葉を舞は必死に飲み込んだ。
「…………ごめん、なさい」
「あぁ、もぅ。いいって言ってるのにぃ」
麻美と舞の話はかみ合わない。麻美はとにかく襲ってしまったことを謝り、舞が気にしているのはそれそのものではないのだから。
舞は自らの感情を堪え、じゃあと小さく呟いた。
「……一つ、聞かせてください。その、先輩が昨日様子がおかしかったのって、『楓さん』っていう方が原因だったんですか?」
舞は虚しさを感じていた。わかりきっていることのはずなのに麻美から直接聞かなければ理解しようとしない自分に。
「…………えぇ」
楓のことなど今思い返したくはないが、舞には真摯に答えなければいけない。
「そっか……そうですよね。あたり、まえですよね。昨日、あんなに呼んでたんですから……」
舞は今まで麻美が聞いたことないよう哀しみに滲んだ声を発した。右手で左腕を強く掴み何かを耐えるように唇を噛み締めた。麻美は見ていないが、顔も悲痛に歪みいつ泣きだしてもおかしくない様子だった。
しばらく二人とも押し黙ると、舞が何か意を決したように先ほどまでの顔を振り切った。
「先輩。なら、あたしのお願い聞いてもらってもいいですか?」
「……なんでも」
「次の休み……あたしと」
舞の次の言葉を麻美には当惑を、そして舞自身には自らを傷つけるものだった。
「デートしてください」