「ふーん、思ったよりも片付いてるんですね」
ドアを開けた絵梨子よりも先に部屋に入ったときなは開口一番にそう感想を述べた。
「思ったよりって何よ。なんか、朝比奈さんって私のこと低く見てない?」
「……かも、しれませんね」
今二人がいるのは絵梨子の部屋だった。あの時、あのまま一人にしてはいけないと感じた絵梨子が思わず部屋に来てと言ってしまいときなは少し悩んだ後それを受け入れてくれた。
車で三十分ほどの絵梨子のマンションへと着いたところだ。
一人暮らしには若干大きめの部屋に一人用ベッドとその脇に机、その反対にテレビが置いてあり、テレビと机の間に小さなテーブルが置かれている。それぞれ雑多な小物などが置いてあるが、床が散らかっていることもなくよく整理された部屋だった。
「……ここに連れてきたってことは、話せってことですか? あの子のこと」
ときなは部屋の中央に行くと背中越しに絵梨子に問いかける。
「……うん。聞きたい。けど、朝比奈さんが話したくないならいいよ」
「……言ったじゃないですか。私は真面目なんです。ここに着いて来たって言う時点で義務感が生じますよ」
ときなは振り向かない。絵梨子も正面にまわらず顔を合わせることなく会話を続けていく。
「……うん。でも、聞かない」
「…………というか、話すつもりがまったくなければこんなところにのこのこついてくるわけないじゃないですか。卑怯ですよ、そんな風に言うの」
「私が聞いたからじゃなくて、朝比奈さんから話してもらいたいの」
「勝手ですね」
「ごめんね」
「…………」
少しの沈黙の後、ときなが一つ大きく深呼吸をする。大きく肩を上下させるとゆっくりと振り返った。
「はじめに言っておきます。私、あの子のこと好きですよ。それを誤解しないでください」
「うん」
そこでようやく絵梨子はときなとの距離を縮め、ときなの前にまできた。そして、ベッドに背中を預けて腰を下ろすとときなもそうするようにと促す。
肩が触れ合いそうで触れ合わない距離でときなは絵梨子を見ることなく、絵梨子はときなを見つめた。
「……私、あの子が天原に来るの反対なんです」
「どうして?」
ポツリと、独白のように始められた吐露に素直な疑問を返す。
「……私って、優秀じゃないですか」
「へ……?」
だが、いきなり話が飛んでしまい絵梨子は素っ頓狂な声を上げて首をかしげた。
「自慢に聞こえるでしょうけど、私は別にそんなに努力してそうなってるわけじゃないんです。ただ、できちゃうんですよね。勉強だけじゃなくて、運動もできるし、生徒会とかの仕事も苦じゃない、中学生のときは英語のスピーチで全国の大会に出たこともあるんですよ。だから先生の受けもいいし、親からだって期待されちゃいます。私はできるからそれを苦に感じることもありません」
「………………」
いきなり始まった自慢話だが、ときなはそれを鼻にかけることなどまったくせず逆に淡々と話す中にも寂しさが浮かんでいた。
「でも、あの子は違うんですよ。妹は、努力しないとできないんです。そして、周りの人たちは勝手なもので、妹にまで期待して、妹も真面目だからそれに応えようとがんばって、それでも私ほどはできなくて、そうするとあの子は余計にがんばって。中学のときとかひどかったですよ。ほとんど友達も作らないで、体だって丈夫じゃないくせに無理して、私のようにって……見てられなかったです」
「朝比奈、さん」
なんと声をかけていいのかわからなかった。この告白自体に驚きはしたが、これ自体には今ときなが苦しんでいる理由には結びつかず、今はまだ言葉が見つからない。
「私からやめろなんていえるわけもないし、だから、あの子から離れるために天原に来たのに……なんであの子は私の後ろをついてこようとするの!? そんなことしたって、また中学のときと同じことの繰り返しになるだけじゃない!」
それは一見妹を想う姉の言葉に聞こえる。
だが、取り乱した感情の中に悔しさのようなものが混じっているのに絵梨子は気づいた。
「…………厳しいこというかもしれないけど、言うわ。朝比奈さんが苦しんでたのって、そのことじゃ、ないんじゃない?」
「っ!?」
もしかしたらまだときなはそれを隠そうとしてたのかもしれない。意図的にではなく、無意識に自分を守ろうとしていたのかもしれない。
だが、それを突かれたときなは泣き出してしまいそうなだった表情を驚きへと変化させた。
「……………………………………………………はい」
「……聞かせて」
先ほど自主的に話して欲しいといっていた絵梨子だったが、ここではそう述べた。それがときなにとって必要な気がした。
手を引いて導いてもらうことを望んでいるような気がした。
「先生からあの子が受かったって聞いた時、なんだかすごい脱力感がしました。それから、押し込んでたものが溢れたみたいに体中に嫌な気持ちが駆け巡って……今自分が天原にいるのがすごく嫌な気分になりました」
「っ」
悲しい言葉。それはこの一年の自分を否定する言葉。絵梨子との思い出を否定する言葉。
「今は、そんなことないですよ。仲のいい友達もできたし、寮の生活も楽しいです。けど、来るまではそんなことなかった。今までの生活を捨ててこんなところまできて……悩んだんですよ? 苦しんだんですよ? ここを受けるって決めるまですごく。受かってからも不安で、怖くて、でも誰にも話せなくて、でもだからこそあの子は、こんな思いをしてまで天原に来ようだなんて思わないって思った、のに……」
(せつなさんは天原に来た。【お姉ちゃん】の影を追って)
「何で私はここにいるんですか? あの悩んだ時間はなんだったんですか? 何のためにあんなに苦しんだんですか? 友達とも別れて、親からも離れて、住み慣れた町を去って……全部、無駄じゃないですか! あの、苦しんでた時間が……全部」
(そっか。そうだ、この子は子供だった)
ときなの本心を聞きながら絵梨子はそんなことを思っていた。
(大人っぽく思えても、何でも出来ても、この子は私より七つも年下の子供)
一人じゃなにもできない子供なのだ。
途端に今隣にいる少女が幼く思えた。同時にこの少女を守ってあげたい、助けてあげたいという強い想いが沸いてきた。
「……そんなこと思えば、思うほど……あの子のことが、嫌いに、なり、そうで……そんな自分が嫌でたまらなくて……最低、ですよ。あの子の、こと……散々苦しませてきたくせに、私の勝手な都合で嫌いになるなんて、私はあの子の姉、なのに」
「………………ときな」
支えなければ崩れてしまいそうなときなを、わずかな逡巡のあと朝比奈さんではなくそう呼んで優しく抱きしめた。
「っ……」
さらさらとした髪の上からぎゅっとときなを抱きしめるとときなは瞳に溜まっていた涙をわずかに流す。
「そんなことないじゃない。最低だなんてことない、ときなは優しいじゃない」
「……優しくなんか、ありませんよ」
「優しいよ。いつも私のこと助けてくれた」
「……………」
「けど……すごくバカ」
少なからずもっているはずのプライドをあえて傷つけながらも絵梨子は笑っていた。まるで姉が妹をやさしく諭すように高みから頭を撫でているかのようだった。
「ときなは全然優秀なんかじゃない」
繰り返す、ときなの矜持を傷つける言葉を。
事実なのだから。
「つらいことを一人きりで抱え込んじゃう人なんて、ただのバカだよ」
「……………」
「辛かったら、辛いって言って。悩んでることがあったら話してよ。ときなは何でもできるからって何でも一人で抱え込んで…………甘えてもいいんだからね? お姉さんだからとか、頼られてるから、期待されてるからなんて関係ない。一人で抱えきれないことがあったら、一緒に持ってって言えなきゃダメ」
ぎゅ、っと優しくしながらも抱いている手に力を込める。
「それに、一人でできることだって一緒にしたほうが楽でしょ?」
余裕のある笑顔。それは抱きしめられているときなからは見えないが、そのなんともいえない言葉の響きにつーっと涙を流して微笑んだ。
「……………そういえば」
「ん?」
「先生は、【先生】だったんですよね」
「そうよ。今までなんだと思ってたわけ?」
「……妹みたいに思ってました」
「あはは、それはそれは……」
なんとも反応に困る言い草に思わず苦笑してしまう絵梨子だったが、ときなが絵梨子の服を弱弱しくつかみ胸に頭を預けてくるとその顔をほころばせた。
「けど、こうして甘えさせてくれる……やっぱり先生なんですね」
今のときなは絵梨子が初めてみるときなだった。いや、ときな自身も初めて他人に見せた姿だったのかもしれない。
「……………ずるい。完敗ですよ」
ときなはそういうと絵梨子の手から逃れ、潤んだ瞳で絵梨子を見つめた。
そこにあるのは単なる感謝や、尊敬の念だけではない、ある情熱の光がこもっていた。
「……今日は、もっと、甘えたい気分なん、です……」
戸惑いながらも情熱の光を弱めることなく訴えかけるときなは絵梨子にとってこの世の何より愛しく思えた。
「えぇ」
絵梨子はその愛しい相手に短く答えると、ときなと同じ思いをもって応えるのだった。
夜になり闇の訪れた部屋。
二人はベッドの上で手を握り合い見つめ合っていた。
「……先生」
「ん? 何?」
「…………甘えるのも悪くないかもしれませんね」
「でしょ?」
「……これからも甘えちゃうかもしれませんけど、先生が言ったんですからね。甘えろって。拒否はできないですからね」
「うん、私もときながいないとダメみたいだから」
「そ、そういう話じゃありません!」
「ふふ、わかってるって。けど、お互い様。私も頼りにしてるからね」
「ふぅ、生徒に甘えようとするなんて、なんて先生ですか」
「だから、関係ないの。好きな人には甘えたくもなるでしょ」
「……そうですね」
「そうよ」
互いに向き合わせた顔を幸せそうにほころばせる。先ほどから何度も同じように笑ってしまうが、好きな人の顔を見ていれば笑いたくもなる。
「……先生」
だが、ときなはそんな中ふと真剣な目つきになって絵梨子を呼んだ。
「何?」
「あの子のこと、気にしてあげてくれませんか?」
「あの子、って妹さん?」
「はい。……あのままじゃあの子、どっかで行き詰まりますよ。でも、私から言ってもきっと伝わらない。けど、先生の言うことなら違うと思いますから」
「……うん」
と答えるもののどうすればいいのかわからないのが現実だった。
初めて人に頼ることを覚えたときなの願いを聞き届けてあげたいとは願っても、すべてができるわけではない。
「あは、別に先生が直接何かしてくれなくてもいいんですよ。先生がそういう立場になれるとも限りませんし」
ときなはそれを敏感に察したらしく、苦笑した。
「ただ、あの子もこうして甘えられたり、弱音を聞いてくれるような友達が一人でもいたら変わるかなって思うから、もしそういう機会があったら気を回してあげてください。あの子一人じゃきっと友達もできないですから。……もっとも、私が偉そうにいえることじゃないですよね」
「それはそうね。妹さんのことはまだよくわからないけど、ときなだって【独り】だったもんね」
「……だから、なおさらじゃないですか。つらいときに独りで苦しんで欲しくないから」
「うん、わかった。実は来年クラス持つことになってるの。できたらだけど、妹さんの担任になれるよう頼んでみる。その後はちょっと確約、できないかもしれないけど」
「まぁ、あの子と友達になってくれる子がいるかもわかりませんからね」
「それは、大丈夫じゃない?」
「なんでですか?」
「ときなの妹さんだもん。きっと本当は素敵な子なんだって思うよ。素敵なときながこんなに想ってる子なんだから」
「……恥ずかしいこという人ですね」
口ではいつもと変わらずに生意気なことをいうときなだったが、素直な気持ちを吐露できるということに嬉しさを感じつつ、せつなにもそれをわかって欲しいと強く願った。